媒介者など

期間限定で無料公開されるということで、ちょっと前に大林宣彦の『異人たちとの夏*1YouTubeで観た。1988年の作品。原作は山田太一*2の小説だが、山田はこの映画のシナリオには一切関わっておらず、市川森一が脚色を一手に引き受けている。
人気脚本家の原田(風間杜夫*3)は妻と離婚してマンションで独り暮らしを始めたことを契機として、〈異界〉に迷い込む。〈異界〉が原田の世界に侵入してくるといった方が正確かも知れない。具体的に言うと、12歳のときに交通事故で死んだ父母(片岡鶴太郎*4秋吉久美子*5)と再会して、家族の団欒を過ごし直す。また、(実は自殺した幽霊である)桂という女性(名取裕子)とのセックスに耽溺する。原田は勿論父母が既に死んでいることを知っているが、桂が実は幽霊であることには気づいていない。どちらも原田にとっては、悦ばしきことだったが、精力を吸い取られて、原田は目に見えて衰弱してしまう。結局は、〈異界〉との関係を断ち切って、この世に帰還することによって、物語は閉じられる。すごくアナクロニズム的なことを言えば、この映画は中年男版の『君たちはどう生きるか*6であると言えないこともない。
ところで、『異人たちとの夏』には間宮という男(永島敏行*7)が登場する。彼はTV局のプロデューサーで、原田がシナリオを書いたドラマを担当している。しかし、彼は原田と業務上以上の関係を有している。間宮は桂と対決して、原田をこの世に引き戻す(或いは〈異界〉をこの世から打ち払う)原田にとっての恩人である。しかし、他方で、彼は以前から原田の妻に惚れていて、原田の離婚を機に付き合い出し、その再婚相手となる。その意味では、原田の〈異界〉に落とした張本人といえるかも知れない。間宮は原田を〈異界〉へとプッシュし、〈異界〉からプルする。そのような仕方で物語を作動させている。『君たちはどう生きるか』でいえば、アオサギに当たるのだろうか?
アナクロな話をさらに続けてみる。この映画の舞台となっているのは、バブル経済最盛期或いは昭和の末期である。原田の〈異界〉滞在、特に父母が住む古アパートの一室という設定というのは、バブル期の東京再開発(地上げ)への抵抗であると言えないこともない。さて、1980年代、昭和末期のコミュニケーションの主要な道具は固定電話と公衆電話だ。21世紀において映画を観る私は、昔の自分自身がそうだったのにも拘らず、この時代はまだ携帯電話を使っていないんだ! と軽く驚いてしまう*8。その一方で、ノスタルジックなものとして提示される、原田が子どもだった頃の、また父母が今もまだ生き続ける、多分昭和30年代であろう世界においては、一般の家に固定電話はない*9。それで、つい最近まで、大衆的なノスタルジーの対象として提示され・消費されるのは昭和30年代だったということを思い出した。それは1980年代でも変わらなかったのだった*10
なお、『異人たちとの夏』が今頃になって注目されれいるのは、これが英国においてリメイクされたからだろう;


シネフィル編集部「山田太一の傑作小説を映画化。「荒野にて」「さざなみ」のアンドリュー・ヘイ監督が描く愛と喪失の物語『異人たち』監督&キャスト自らガイドする特別映像が解禁!」https://cinefil.tokyo/_ct/17690733
映画チャンネル編集部「山田太一の原作が英国で賞総なめ…その理由とは? 『異人たちとの夏』のリメイク映画を徹底解説。大絶賛の海外評を紹介」https://eigachannel.jp/movie/50538/#google_vignette
八竹彗月「映画『異人たちとの夏』」http://fractal-ihi.sblo.jp/article/190807441.html

*1:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20111211/1323533796 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/04/12/025007

*2:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20080821/1219335534 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20110924/1316792856 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20161230/1483071439 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/10/20/121524 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2023/02/01/132933

*3:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20060514/1147587985 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20100712/1278905010

*4:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20111219/1324265873 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20161112/1478960736 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20180705/1530803122

*5:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20070123/1169575048 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20091021/1256098110 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20100916/1284660360 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20110208/1297194895 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20170422/1492867244 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20180714/1531581302 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/07/30/102841 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/12/01/142405

*6:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2023/08/13/074355 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2023/09/02/174133 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2023/10/02/102958 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/03/13/155629

*7:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20131112/1384187757

*8:因みに、原田はワープロ専用機を使って執筆している。

*9:ただ、TVはある。

*10:最近では、ノスタルジックな昭和として提示されるのは1980年代であることが増えてきたようだけど、それは何時頃からなのだろうか?

もうひとつの駅

京成の終着駅、京成上野*1と日暮里*2の間に、かつて博物館動物園という駅*3があったことを知る人は多いんじゃないだろうか。廃駅となった今でも、その出入口は東京国立博物館の前辺りに今でも残っている。さて、先日地元の某ラーメン屋で、置いてあった草町義和『京成はなぜ「国内最速」になれたのか』という本を捲っていた*4。そこで、上野と日暮里の間にはもうひとつ駅があったことを知ったのだった。「寛永寺坂駅」。とはいっても、1953年に廃止されてしまっているので、私が知らなくても当然といえば当然と言える。
ネットであれこれ検索してみると、「寛永寺坂駅」は現在の台東区上野桜木2丁目*5にあり、駅の地上部分だった場所には現在「セブンイレブン」が建っている。
See also


寛永寺坂駅」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%B0%B8%E5%AF%BA%E5%9D%82%E9%A7%85
sasurai-museum*6「「寛永寺坂駅」の面影を探して~跡地にはコンビニが建っていた!」https://ameblo.jp/sasurai-museum/entry-12676310974.html
ken201407「続・東京鉄道遺産11 京成電鉄 寛永寺坂駅跡と東臺門」https://ken201407.exblog.jp/30663105/

『日常生活の探究』など

承前*1

古本も買った。

井上荒野『あたしたち、海へ』新潮文庫、2022

小川洋子『ミーナの行進』中公文庫、2009三好達治『詩を読む人のために』岩波文庫、1991吉川徹『学歴分断社会』ちくま新書、2009山住正己『子どもの歌を語る――唱歌と童謡――』岩波新書、1994黒岩比佐子『食育のススメ』文春新書、2007関幸彦『「鎌倉」とはなにか 中世、そして武家を問う』山川出版社、2003大久保孝治『日常生活の探究 ライフスタイルの社会学』左右社、2013

『日本中世の非農業民と天皇』など

本を買った。

網野善彦『日本中世の非農業民と天皇 (上)』岩波文庫、2024

網野善彦『日本中世の非農業民と天皇 (下)』岩波文庫、2024池上俊一魔女狩りヨーロッパ史岩波新書、2024


植田将暉氏*1曰く、

非対称(メモ)

山下ゆ*1川上未映子『ヘヴン』」https://morningrain.hatenablog.com/entry/2024/03/22/230241


川上未映子の小説『ヘヴン』*2について。
主人公=語り手の「僕」と他の登場人物たちとの間の根柢的な非対称性に着目していたので、取り敢えずメモしておく。


また、読み終わってみると、主人公がさんざん「コジマ」と話しかけながら、コジマは一度も主人公の名前を呼ばない、つまり主人公の名前が明かされないというのも変と言えば変です。

そしてラストも、すっきりと解決したわけではないですが、今まで世界にしっかりと存在できていなかった主人公が存在できるようになったという感じで、確かに1つの達成にはなっている(小説の中で主人公の名前が明かされないのは、世界に存在していなかったということの表れなのかな?)。

不定形に迷って

棋客*1「藤高和輝「パスの現象学トランスジェンダーと「眼差し」の問題」」https://chutetsu.hateblo.jp/entry/2024/03/19/120000


藤高和輝「パスの現象学トランスジェンダーと「眼差し」の問題」という論文からの抜書き。
タイトルにある「パス」という単語を見て、「パス」っていったい何なのか? と思ってしまった。エントリーの本文を開いて、「「パス」とは、出生時に割り当てられた性別が、他者に読み解かれないようにする実践を指します」という説明を読み、疑問は氷解した。でも、これは社会学用語としては、英語でも日本語でも「パッシング(passing)」として流通しているものではないだろうか? passingはpassの動名詞なのだけれど、最近は不定形が(日本語でも)流通しているの? まあ、「パッシング」は自らが「パス」するという能動性だけではなく、他者によって「パス」されるという受動性も関わっているので、それを考慮するなら、-ingよりも不定形の方が妥当なのかも知れない。
「パッシング(passing)」について、Wikipediaの記述を引用しておく;


Passing is the ability of a person to be regarded as a member of an identity group or category, such as racial identity, ethnicity, caste, social class, sexual orientation, gender, religion, age and/or disability status, that is often different from their own. Passing may be used to increase social acceptance to cope with stigma by removing stigma from the presented self and could result in other social benefits as well. Thus, passing may serve as a form of self-preservation or self-protection if expressing one's true or prior identity may be dangerous.

Passing may require acceptance into a community and may lead to temporary or permanent leave from another community to which an individual previously belonged. Thus, passing can result in separation from one's original self, family, friends, or previous living experiences. Successful passing may contribute to economic security, safety, and stigma avoidance, but it may take an emotional toll as a result of denial of one's previous identity and may lead to depression or self-loathing. When an individual deliberately attempts to "pass" as a member of an identity group, they may actively engage in performance of behaviors that they believe to be associated with membership of that group. Passing practices may also include information management of the passer in attempting to control or conceal any stigmatizing information that may reveal disparity from their presumed identity.
https://en.wikipedia.org/wiki/Passing_(sociology)

「パッシング(passing)」を巡って真っ先に参照すべきなのは、アーヴィング・ゴッフマンの『スティグマ社会学*2ハロルド・ガーフィンケルの所謂「アグネス論文」(”“Passing and the Managed Achievement of Sex Status in an ʻIntersexedʼ Person Part1 an Abridged Version" in Studies in Ethnomethodology*3)ということになろう。また、ゴッフマンとガーフィンケルの「パッシング」概念の差異を巡っては、


河村裕樹「「普通であること」の呈示実践としてのパッシング――ガーフィンケルのパッシング論理を再考する――」『現代社会学理論研究』11、pp.42-54、2017 https://researchmap.jp/yukikawamura/published_papers/16615749


というテクストあり。

「信仰」と「栄養」

カズオ・イシグロ『クララとお日さま』(2021) を読む」https://kj-books-and-music.hatenablog.com/entry/2024/03/20/130043


私は何時も7~8冊の本を同時並行的に読んでいて、週に何冊かは読了している。このblogでもその報告をしようしようとは思っているのだけど、なかなかできなくて、(blogで紹介していない)数十冊、或いは3桁の読了した本が溜まっているのだった。さらに、積読状態の本がその数倍、数十倍ある。
上掲のエントリーで古寺多見氏が取り上げているカズオ・イシグロ『クララとお日さま』*1は(たしか)昨年の大晦日に読了している。この小説について、このblogで何か書こうと思いつつも、今の今まで何も書いていない。
古寺多見氏が『クララとお日さま』で注目した点と、私が印象的だと思った部分は違う。氏は語り手である「クララ」の「太陽神信仰」に注目している。
物語の冒頭;


はじめてお店に並んだとき、ローザとわたしに与えられた場所は店央の雑誌台側でした。そこからだとショーウィンドーの半分以上見えます。お店の外もよく見えました。急ぎ足で行き交うお勤めの人とか、タクシーとか、ジョギングの人、観光客、物乞いの人とその犬、そしてRPOビルも、下のほうだけですが見えました。だんだんお店に慣れてくると、もっと前まで行っていいというお許しが店長さんから出て、ショーウィンドーのすぐ後ろまで行けるようになりました。ここではじめて、RPOビルがどれほど高いのかがわかりましたし、たまたま時期が合えば、お日さまがこちら側のビルの上からRPOビル側へ進んでいくところも見られました。
そんなふうにお日さまに出会えた運のいい日は、顔を前に突き出し、できるだけたくさんの栄養をいただきました。ローザがいれば、誘って一緒に。でも、そうやっていられるのはほんの一、二分です。すぐにもとの位置に戻らねばなりません。来たばかりのころは店先にいることが多くて、お日さまに会えないまま体がだんだん弱ってしまうのではないかと心配したものです。当時、レックスという男子AFがわたしたちの並びにいて、そんな心配はいらないと話してくれました。お日さまはどこにでも光を届かせられる、そして床を指差し、「ほら、あそこにお日さまの光模様があるだろ。心配ならあれにさわれば、また元気になれるよ」と。(pp.11-12)
「お日さま」が下さるのは生きていくための「栄養」であり、実際は「 お日さまはどこにでも光を届かせられる」ので、明るい場所であれば、何時でも何処でも「栄養」をもらえるのに、直接見なければ「栄養」は届かず「体がだんだん弱ってしまうのではないか」という不安がある。
たしかに、「お日さま」はたんなる「栄養」源としてではなく、「クララ」にとって、憧れや尊敬の対象であり、さらには「クララ」を罰したり赦したりする〈神〉のような存在としても認識されている。

納屋の内部が暗くなってきました。これはとてもやさしい暗さです。無数の断片はやがて消え、納屋内部の断片化が解消されていきます。お日さまはすでにここを通り過ぎていきました。わたしは折りたたみ椅子から立ち上がり、はじめてマクベインさんの納屋の裏まで歩いてみました。ここに立つと、納屋の背後に野原がさらに広がっているのが見えます。でも、ある程度行ったところに立木の列があって、これが一種の柵の役割をしているようです。その立木の柵の向こうにお日さまが沈んでいきます。くたびれて、もう強烈な輝きはありません。空が夜に変わり、お星さまが見えてきました。休息所に向かうお日さまが、わたしにやさしくほほ笑みかけてくれているのがわかります。
わたしはお日さまへの感謝と敬意を胸に、最後の輝きが地面の下に消えていくまで裏口に立ちつづけました。それからマクベインさんの納屋の暗い内面を歩き、来たときの足跡を逆にたどるようにして、納屋を立ち去りました。(pp.264-265)

リックが去り、わたしはいま独りです。お日さまが屋根より低くおりてきて、最後の光で納屋の横腹を貫くのを待っています。街で犯したわたしの過ちに、お日さまはお怒りかもしれません。でも……と思ったとき、はっとしました。これまで思いもしなかったことに気づきました。お日さまに特別の助けを頼めるのは、これが最後になるかもしれません。この機会をいかせなかったら、ジョジーは……、心に恐怖が湧きあがりました。でも、お日さまはやさしい方だから……と、わたしはその思いにすがり、いまはためらわずマクベインさんの納屋に向かいました。(p.425)
さて、『クララとお日さま』で最も戦慄的なのは最後の最後。短い第六部だと思う。「お日さま」のご加護によって「ジョジー」の生命が恢復するというクライマックスが終わった後の後日談。ここで、メタ・ナラティヴ的な仕掛けが開示されるとともに、また新たな謎が喚起されて、物語はフェイド・アウトしていく。