植田将暉氏*1曰く、
ぼくの理解では、通信制ではない「大学」は、そこに学生や教職員や図書館や生協や周辺の飲食店などが「集まっている」というキャンパスの「空間性」に全面的に依存しており、これをほとんど欠くことになる「入構制限+授業のオンライン化」は、大学をめぐる認識と議論の枠組みをすっかり変えてしまう。
— Masaki Ueta (@reRenaissancist) 2020年4月15日
多分その「空間性」は遅くとも1990年代以降、徐々に、しかし決定的な仕方で変容を被っているのだと思う。
2006年に。
植田氏が「大学をめぐる認識と議論の枠組みをすっかり変えてしまう」と認識している今回の事態はこの「変容」をさらに推し進めるものなのだろう。
(前略)多分、大学生にとっての〈大学〉の意味というのが徐々に時間をかけながら変容してきたのだろう。かつては、大学は生活する場、〈居場所〉だったように思う。生活そのものには目的などない。また、講義に出るとか勉強するというのは〈生活〉の一部にすぎない。だから、授業の有無に拘わらず、大学(或いはその周辺)には来ていた。多分、徐々に授業を受けに行くための場所になっていったのだと思う。つまり、大学生にとって、大学というのは幾つかある〈職場〉の一つにすぎない。但し、そこでは、彼(彼女)は消費者=労働者なのだが。「生徒」という自称の蔓延はその変化を反映しているのだと思う。変化は勿論緩慢なものだっただろうが、学生の授業出席率の上昇といったものがある筈だ。〈学生〉というのが学問をしている人という一般的な社会的身分を指示しているのに対して、〈生徒〉というのは(あくまでも私の感覚では)特定の機関の管理下にあって役割を遂行する者ということしか意味しない。そうすると、所謂〈迷惑〉な連中はその役割遂行にとって邪魔なだけだということになる。恐らく、昔と今とでは、「迷惑」の意味も違っているのだろうと思う。〈居場所〉だったときは、自分の〈居場所〉を荒らす奴、〈居場所〉に仁義を欠いて入り込む奴が「迷惑」だったのである。それが今や、〈職場〉の上司に逆らう奴が「迷惑」ということになってきているのではないか。
https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20060217/1140138853