安倍晋三 on 『ミリオンダラー・ベイビー』(メモ)

美しい国へ』なる本も読んでいないので、何ともいえない。安倍晋三クリント・イーストウッドの『ミリオンダラー・ベイビー』に言及しているという。それに対する批判的言及を見かけたので、メモしておく;


 http://d.hatena.ne.jp/araignet/20060915/1158246461
 http://d.hatena.ne.jp/morningrain/20060909


実際にどう語っているのかというと、http://d.hatena.ne.jp/morningrain/20060909では、


 この映画はスポ根映画でもなければ、サクセス・ストーリーでもない。実の娘に縁を切られたフランキーと、愛する父を失ったマギーが、疑似父娘のような関係にたどりつくまでの物語である。その背後には、「アイルランド系というアイデンティティへの帰属」「カトリックという宗教への帰属」、そして「家族への帰属」という、じつに重たいテーマが横たわっている。(88p)
という一節を引用している。安倍にとって、鍵言葉は「帰属」であるらしい。それに対する反応;

 確かにアイルランド系のルーツというのはこの映画の重要な要素かもしれないけど、例えばこの映画を見て「家族の大切さ」を感じる人なんているのか?マギーの家族なんて、家族であることのもっとも醜悪な部分を見せつけてるじゃない。

 基本的に『ミリオンダラー・ベイビー』は、帰属とかそういうことから見放された孤独な人間の物語であり、その孤独な魂の交流みたいなものが深い感動を生んでいる映画で、「帰属」とかの大切を訴えるにはかなり不適切じゃないかと。
http://d.hatena.ne.jp/morningrain/20060909


だが、そう簡単に結論は出せない。そもそものはじめから、この老トレーナーのアイリッシュ系であり熱心なカトリック信者であろうとするこだわりは、彼の生活を支えるほどうまくいっているようには見えない。アイリッシュ同士のコミュニティーと交流があるわけでもなく、欠かすことのなくミサに訪れる教会の神父は、彼の神学論議を軽くあしらうばかりである。彼がゲール語を学び、定期的に教会に訪れるのは、ただ出自にこだわるためにこだわるという空虚なスタイルの様相すら呈しているように見える。さて、後半、老トレーナーと女ボクサーはある極限状態に直面するのだが(今回はネタバレしませんよ)、そこで示されるのは絶望的なまでに「帰属」へのこだわりがこの事態において機能しないということである。主人公は再度、神父を訪ねる、神父は聖書からの通り一遍の引用を聞かせる、その隣りで主人公は号泣する。だが、ここで間違っても彼が神父の言葉に心を打たれて泣いているなどと思ってはいけない。そうではなくて、彼は此期に及んでも(いや、むしろ此期であるからこそ)神父の言葉が心に響かないことに絶望して泣いているのだ。この映画の後半が物語るのは「帰属」という支えが着実に縮減していくその過程であり、二人は徹底的に孤立し見捨てられ、アイリッシュであることの意味が、ついには「モ クシュラ」の二語のみへと切り詰められるから、涙を誘うのだ。
http://d.hatena.ne.jp/araignet/20060915/1158246461
さらに、araignetさんは

にもかかわらず、彼は『ミリオンダラー・ベイビー』を引用した。ということは、彼は観客席に座っていたにもかかわらず、大画面と大音響、そしてイーストウッドにしてはやりすぎとも言える演出で、「帰属」から見捨てられた人々が映し出されていたのを、何も目にすることがなかったという、あきれるほどの盲目性を示していたということだ。そのような恐るべき欠陥を抱えた人間が、現実世界において、決して表舞台に上ることなく、その声も小さく、いささかもドラマティックではない生活を送っている弱者たちを知覚できるなどと考えられるだろうか。
とまでいう。
ところで、私はhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050702で『ミリオンダラー・ベイビー』を語り、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060207/1139336690で他の人の読みを紹介した。私の読みの中心は後半における「決定不能性の試練」、それからフランキーと(画面には登場しない)娘のケイティとの和解の可能性だった。「決定不能性の試練」に関して言えば、デリダの『死を与える』を持ち出すまでもなく、絶対的な孤独の裡で絶対的他者と向き合い、〈決定不能〉な決定を下さなければならないということは「試練」に含まれている。また、娘との和解の可能性について言えば、和解の可能性があるとしても、それは父=フランキーの(社会的な意味での)〈死〉、つまりあらゆる「帰属」からの切断を前提としたものだろう。