http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070913/1189697750に対して、Skeltia_vergberさん*1からコメントをいただいて、そこに「訛り」の話が出てくるのだが、それに触発されて、滑々とメモ書きをする。これは「私と相手が同じ言語(langue)を話している(書いている)という事実は如何にして了解されるのか」ということとも幾らかは関連する。
或る人の発話を聴いて、私が〈訛ってる!〉と判断する。何故そんなことがいえるのか。私は〈そう聞こえるんだから仕方ないだろ!〉というしかないだろう。また、或る人は標準語の正しい発音の仕方からかくかくしかじかに逸脱しているから、〈訛っている〉のだと言うかも知れない。さて、前者の場合、私には何らかの基準があって、そこから外れた音を〈訛ってる!〉と判断するわけだ。後者の場合、〈基準〉は国語学者とか国語審議会とか文部科学省といった専門家や官僚機構にあるとされている。「訛り」を突き詰めると、地域とか階級といった社会学的単位から個人差というレヴェルに行き着かざるを得ず、究極的には「訛り」は個性だ! というしかないのだろう。いや、昨日の私と今日の私には発音の差異があるかも知れず、今日の私から見れば、昨日の私は〈訛ってた!〉ということになるかもしれない。そこで、(これは言語学を専攻する人などにとっては自明のことなのだろうけど)例えば日本語の正しい発音、英語の正しい発音という時の「正しい発音」というのは現実に存在するものではなく(現実に耳によって聞こえるものではなく)、理念的な存在であるということをいっておく。その理念的な「正しい発音」があることによって、様々に異なった音たちが〈同じ音〉として聴かれるわけだ。この理念性は、或る場合には異なった音たちを1つの音に同化するよう機能し、或る場合には〈同じ1つの音〉から「訛り」を析出し、時には排除するように機能する。ここには、地域や階級や或いはエスニシティの間に働くハイアラーキー、差別等々の社会学的要素が介在していることは想像に難くない。それ以前に、〈同じ音〉、「正しい発音」、「訛り」といったものが社会的なものとして存立してしまっているという事実にこそ驚き、目を向けなければならないのかも知れない。ということで、山崎敬一氏が「ガーフィンケルはあらかじめ諸主観が構造的に一致していることを前提にして議論するのではなく、いかにして諸主観が一致するのか(あるいは一致しないのか)、いかにして理解の共同体が成立するのかと問いかけたのである」(「主体主義の彼方に」in 『現象学的社会学の展開』、p.238)と書いていたことを思い出したのだった。
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こうした問題は、〈逸脱の現象学〉という一般化された枠組において思考されるべきものであろう。最後に、その記念碑的なテクストである張江洋直「体験されている〈逸脱〉判定へと還り問うために――〈逸脱〉の現象学に向けて――」(『明治大学社会・人類学会年報』3、1989)を取り敢えずマークしておく。
*1:http://blog.livedoor.jp/skeltia_vergber/
*2:洗脳されるといいたければそう言ってもいい。
*3:Cf. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050904
*4:その素人には本人も含まれうる。