喜多條忠

『日刊スポーツ』の記事;


神田川」作詞家・喜多條忠さん死去、74歳 吉田拓郎と数々のヒット曲
[2021年12月1日0時1分]



かぐや姫のシングル「神田川」などで知られる作詞家・喜多條忠(きたじょう・まこと)さん(本名同じ)*1が22日午前6時、肺がんのため横浜市内の自宅で死去した。74歳。

葬儀は親族で済ませた。喪主は妻輝美(てるみ)さん。

放送作家から作詞家に転身し、吉田拓郎(75)とのコンビで数々のヒット曲を生んだ。人生の中盤をボートレースにささげ、還暦で演歌で作詞活動を再開した異色の経歴を持つ。後日、しのぶ会が開かれる予定。

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昨年、頭部に腫瘍が見つかり、治療の過程で肺にも小さな腫瘍が見つかった。手術と放射線治療を続けて、今年3月にはゴルフをするまでに回復。作詞活動も続けた。10月中旬に入院先から自宅に戻ったが、11月半ばに意識が混濁。眠るように亡くなった。

早大在学中に、浅川マキさんの「カモメ」を聴き、歌詞に興味を持った。大学を中退し、文化放送放送作家をしている時に、かぐや姫南こうせつ(72)と意気投合。アルバム用の作詞を依頼された。「『締め切りは今日なんですけど』と平気な顔をして言った」と当時を懐かしんだ。

急な依頼だったが、帰宅途中に神田川を見た。同川沿いの3畳一間のアパートで彼女と同棲していた学生時代を思い出した。一気に書き上げた。73年発売の名曲「神田川*2である。学生運動の熱が冷めていく中、彼女との平凡な日々の空虚感を「ただ 貴方のやさしさが 恐かった」に込めた。

親交深い吉田拓郎の依頼で梓みちよの「メランコリー」(76年)を作詞した。この時、拓郎に「歌謡曲のセンスないから書けないだろうけど」と言われ発奮。後に拓郎から「いくつか曲つけたけど詞に勝てなかった」と称賛された。この作品でフォークソング作家のイメージを払拭(ふっしょく)。拓郎と手掛けたキャンディーズの「やさしい悪魔」「アン・ドゥ・トロワ」など歌謡曲でも頭角を現した。

35歳のころに「乾いたタオルを絞って水を出そうとする」ような作詞家生活に疲れ、好きだったボートレースの予想やコラムニストに転身。歌仲間に促され、25年後の60歳で演歌で作詞活動を再開した。日本作詩家協会の会長だった17年に、伍代夏子の「肱川あらし」で悲願の日本作詩大賞(第50回)を獲得。「フォークやニューミュージックで育った団塊の世代の私が、演歌もいいよなと言ってくれる作品をつくりたい」と話した。その情熱が成就した。

神田川(かんだがわ) 作曲は南こうせつ。73年9月20日発売で120万枚超のミリオンセラーとなった。舞台は東京・高田馬場2丁目付近で、歌詞に登場する「横丁の風呂屋」は西早稲田の安兵衛湯(廃業)。同年「第24回NHK紅白歌合戦」に出場依頼が来たが、歌詞の「クレパス」が商品名と問題となり、出場しなかった。74年に関根恵子草刈正雄主演で映画化された*3。「赤ちょうちん」「妹」と3部作といわれる。
https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202111300000658.html


隅田川の支流としての)「神田川」について、最初、秋葉原お茶の水付近の流れしか知らなかったので、「神田川」沿いに住んでいる人もいるんだ! と驚いた憶えがある。
年を取って、「ただ 貴方のやさしさが 恐かった」の前の、「若かったあの頃 何も恐くなかった」というフレーズに戦慄に引っかかってしまったことがある。こう回顧している、「神田川」から離れた(既に若くはない)「私」は何歳くらいなのか。後に、小川洋子さんの『ことり』や『猫を抱いて象と泳ぐ』を読んで本格的に感じた戦慄の予表*4