Shilling on Goffman(メモ)

コロキウム〈第2号〉―現代社会学理論・新地平

コロキウム〈第2号〉―現代社会学理論・新地平

速水奈名子「身体社会学とゴッフマン理論」*1(『コロキウム』2, pp.80-102)の続き。
シリングのゴッフマン論の紹介。「彼は従来の社会学理論、特にパーソンズ以降の社会学理論において身体が残余範疇に位置する概念として扱われてきたことに批判を下し、社会と身体の関係を再考していく必要性を訴えている」(p.85)。
ここで指示されているC. Shillingのテクスト;


The Body and Social Theory Sage, 1993
“The undersocialised conception, of the (embodied) agent in modern society” Sociology 31-4, 1997
The Body in Culture, Technology & Society Sage, 2005


Goffman =「社会的相互行為と秩序の身体性(the corporeality of social interaction and order)を扱った主要な人物」(1997)


シリングはまず、ゴッフマン理論をフーコー理論と対比させ、両者が身体を社会構築物として捉えていた点を指摘している。同時に彼は、両者の身体観にみられる相違点を以下のように記している。シリングによると、フーコー理論における身体は、最終的には言説に回収されるもの(シリングはこれをvanishing bodyと表現している)である。それにたいし、ゴッフマン理論における身体は、行為者によって操作することが可能な身体(corporeal)、すなわち物的な事実に基づいたものである。(ibid.)
「ゴッフマン理論が提示した身体の特徴」;


1)「自己によって操作可能なものとしての身体(manageable body)」
2)「ことばではなく身体が発する一定の意味」としての「身体イディオム(body idiom)」
3)「社会的アイデンティティと身体の関係を分析」(『スティグマ』)

スティグマの社会学―烙印を押されたアイデンティティ

スティグマの社会学―烙印を押されたアイデンティティ

「社会的アイデンティティと身体の関係」について、速水さんは

シリングが指摘するように、ゴッフマンは『スティグマ』において、身体とアイデンティティの関係について分析している。しかし、ゴッフマンが考察対象としている自己概念は、状況的なものであり、通常、社会学や心理学において分析されるような統合的な自己ではないために、後者とのかかわりにおいて分析される自我アイデンティティ――ライフコースをめぐって形勢(sic. 形成?)される自己意識――を彼の理論を用いて分析していくことは困難であるということができる。(註5、pp.98-99)
と指摘している。
シリングによるゴッフマン批判;

まずシリングは、ゴッフマンが相互行為の領域に「身体イディオム」という、いわゆる社会・文化的に規定された規範がどのように入り込んでいるのかを説明していない点、すなわち相互行為秩序と社会的規範の関係を明らかにしていない点を指摘している。次に彼は、ゴッフマン理論がフーコー理論との比較において、身体を物的存在として取り上げることに成功しているものの、両者ともに、身体を社会構造によって規定される受身的な存在としてしか捉えていなかった点を批判している。シリングは、ゴッフマンが身体秩序の議論を展開しつつも、彼が最終的に、身体を心身二元論にもとづいた社会的構築物へと回収してしまっていることに批判を唱え、身体そのものが、社会そして個人の自己アイデンティティに及ぼす影響を明確に検討していかなければならないと指摘しているのである。(p.86)
例えば、『自己のテクノロジー』のようなテクストを参照した場合、フーコーについてここでのような結論が得られるのかどうか。
自己のテクノロジー―フーコー・セミナーの記録 (岩波現代文庫)

自己のテクノロジー―フーコー・セミナーの記録 (岩波現代文庫)