「余白」の喪失

植田将暉*1「オンライン授業で消えた大学の「余白」 日常の何気ない会話が大切だった」https://www.waseda.jp/inst/weekly/news/2020/06/11/75525/


著者は早稲田大学法学部3年生。新型コロナウィルス蔓延による大学の閉鎖と授業のオンライン化で失われたものについて。なお、早稲田大学は4月8日から全面的に立ち入り禁止となり*2、6月1日から立ち入り禁止が段階的に解除されている*3
曰く、


実のところ、オンライン授業になったからといって、生活スタイルに大きな変化は感じていない、というのが正直な感想です。確かにキャンパスに通うことはありませんし、授業後に閉館時間まで図書館にこもることもできません。学内外のアルバイトも減りました。喫茶店でコーヒーを飲むことも、友人たちと集まって読書会を開くこともかないません。そう見てみると激変しているようにも思われるのに、あまり変化したとは感じないのです。というのは、私の生活の中心は、今も昔もそしてたぶん今後もずっと、ひたすらテクストに向き合っていくことにあるからです。


所属するローマ法のゼミでは、毎週、指定された文献を読んでレジュメを作成します

部屋の中にはたぶん1,000冊以上の本が積み上がっていて、頭の中には考えてみたいテーマや勉強しておきたい分野たちがあまたと詰め込まれています。日々それらに向き合うだけです。ひたすら紙の本をめくり、ノートを書き、オンライン・データベースからダウンロードした論文に目を通しながら、「ああそういうことか」、「そうだこの文献も読んでおく必要がある」、「なるほどそういう議論もできるわけね」、などと頭の中で呟(つぶや)きながら、またページをめくり、キーボードをたたき、テクストのさざめきの間を突っ走っていく。本は読めば読むほど、読むべきものが増えていくものです。授業をきちんと受けようと思うと、読んでおくべき文献はどこまでも増えます。そして、ひたすらテクストを読んでいれば、ふと気が付くと一日なんて終わっています。


もっとも、一人黙々とテクストに向き合っていくことだけが、大学の勉強の全てではありません。むしろそんなことは決してなく、大学という場は、他者に出会い、他者と対話してこそ、その真価を発揮するはずです。それは、先生や他の受講生たちと顔を合わせ、話を聞いたり議論したりすることで、自分とは異なる思考や価値観に出合う場としての「教室の中」だけではありません。授業終わりの世間話や、廊下で偶然会ったときに交わす雑談、ラウンジや食堂でのおしゃべり、喫茶店や居酒屋で延々と繰り広げられる、くだらないけど重大な議論。そんな「余白」めいた瞬間にこそ、大学という「場」の魅力があるようにも思います。


オンライン読書会では本をたくさん紹介できるのですが、積み直す暇もなく話してしまうので、後片付けが大変です

しかし、そのような余白は、どうしてもオンラインでは失われてしまうように感じるのです。オンラインの「ルーム」に廊下はないので移動時間や立ち話はなくなります。何か大事なものを失ってしまっている気がします。オンラインで読書会を行ったり、ウェビナー(ウェブ上で開催されるセミナー)に参加したりする機会も増えました。しかし、それがどれだけ対面のものに近似していたとしても、やはりどこまでも、そこに「欠けているもの」を意識せずにはいられないのです。その「余白」や「無駄」は、このまま消えてしまうのでしょうか。消してしまうべきなのでしょうか。今あらためて、身体やその身ぶり、例えば歩くことや出会ってしまうことの重要さが考えられないといけないだろうと感じます。

或る種の考え方の人にとっては、ここでその喪失が嘆かれている「余白」というのは端的に無駄であって、そういう人にとっては、今回の事態の意義は、今まで曖昧に放置されてきた無駄を削除し、真に効率的な学習を実現する条件が開示されたということになるだろうか。思うに、少なくともこの四半世紀、こうした「余白」(無駄)を大学から削除することが、様々な思考の意匠の下に煽られてきたといえるだろう。

*1:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/04/19/004406

*2:早稲田大学における在宅研究・在宅勤務開始のお知らせ それに伴うキャンパス立入禁止について」https://www.waseda.jp/top/news/68945 See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/04/07/004422

*3:早稲田大学における構内立入禁止の段階的解除について」https://www.waseda.jp/top/news/69265