「構造改革派」などについてメモ

ちょっとメモ書き。

先ず日本の「構造改革派」運動*1を巡って;


勝部元「現代革命論としての構造改良論(その3) 日本構造改良派の軌跡」『季刊構造改良』5、1971
http://www.assert.jp/data/history/his/osaka/his017.html
勝部元「現代革命論としての構造改良論(完) 日本構造改良各派の総括とその批判」『季刊構造改良』6、1972
http://www.assert.jp/data/history/mg-website.htm


勝部元はたしか後に桃山学院大学の学長になった人。勝部氏はここで「構造改革」ではなく「構造改良」という言葉を使っている。

まったく別の話で、


http://d.hatena.ne.jp/dlit/20080901/1220297853


「正しい」言語と言語学の関係について。そうか、naturalistic fallacyという言い方もあったんだねということを思い出す。http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100708/1278608641に関係する。
ところで、「何の唐突もなく」*2というのは論理的に(或いは意味論的に)矛盾があるという意味で〈誤った〉言葉遣いだといってもいいだろう。勿論、あらゆる言葉は反語(irony)という仕方で、正反対の意味を持たせて使用することが可能である。これはアイロニーとして使われているわけではないですよね。とすれば、論理的に矛盾を来たすにも拘らず、このフレーズを使って日本語のコミュニケーションがスムースに行われているとしたら、それは如何にしてなのかと、不図思った。よく文法的にいい加減でも通じればいいじゃんという人がいる*3。それは或る意味で正しいといえる。でも、どうしてそれが可能になるのか。ひとつの可能性としては、聞き手若しくは読み手のメタ言語機能のおかげだということが考えられる。〈誤った〉表現に出食わしても、それを補正してしまう。〈誤り〉が摘発されることと見逃されること(通じてしまうこと)は同じ能力に依拠していることになる。後者の場合、会話を中断して相手を叱ることよりも会話を継続することにプライオリティが行われ置かれ、(ゴッフマンが『スティグマ社会学』などで使った意味での)passingが生起しているということか。

スティグマの社会学―烙印を押されたアイデンティティ (1980年) (せりか叢書)

スティグマの社会学―烙印を押されたアイデンティティ (1980年) (せりか叢書)