北野源氏

共同通信の記事;


源氏物語の「ノート」発見 京都・北野天満宮神職が学ぶ
2024/04/25


 学問の神様・菅原道真を祭る北野天満宮*1京都市上京区)は25日までに、安土桃山時代神職が「源氏物語」を学んだ際に書き残した「ノート」や、江戸時代前期とみられる写本が見つかったと発表した。特集展示「天神様と源氏物語―知られざる関係―」で公開している。6月30日まで。

 詩歌に秀でた道真の慰霊のために、北野天満宮では連歌が代々献上されてきた。そのため神職は古典文学の教養を身につける必要があり、源氏物語の学習が重視されたという。

 発見されたのは「源氏物語聞書」。1597年作成とみられ、連歌師から伝授された内容を書き残していた。主人公・光源氏は、源高明がモデルとされるとの記述もある。
https://nordot.app/1156127431107969616

ところで、近代以前の北野の組織については殆ど無知であったことに気づいた。少しネット検索もしてみたが、まだぴんと来てはいない。
北野天満宮の隣に、天満宮の「御本地仏」を称する東向観音寺という真言宗の寺がある*2天満宮よりも創建が古いこの寺は北野天満宮の神宮寺であったが、この寺が北野天満宮を支配していたのではないようだ。別当として北野天満宮を実際に支配していたのは曼殊院という天台宗門跡寺院である*3


みや「北野天満宮菅原道真を祀る社」https://ameblo.jp/rrerr/entry-11765438298.html


これによると、


寛弘元年(1004年)、北野天満宮初代別当曼殊院門主・是算が任じられて以降、幕末まで北野天満宮別当神仏習合により曼殊院門主が兼ねていました。別当の下に松梅院・徳勝院・妙蔵院の3つの祠官三家があり、菅原氏が世襲していました。さらに境内には32の僧坊が置かれており、北野七保と呼ばれる御供所が従属していました。二十二社(朝廷が幣帛を納める社)の一つとして、朝廷と関係の深い社でした。天正15年(1587年)、関白豊臣秀吉北野大茶湯を開催。慶長12年(1607年)、豊臣秀頼の寄進による拝殿、石の間、本殿、中門などが現存しています。

慶応4年(1868年)、神仏分離令により、別当職の僧籍兼務が廃止。境内にあった仏教関連施設は撤去され、鐘楼と鐘は祇園の大雲院へ、多宝塔は破壊されて扉の一部が地蔵院に、擬宝珠は摂社・地主神社の一部に、多宝塔の本尊は親縁寺に遷されました。神宮寺や僧坊も廃止となり、撤去されました。社家は神職へと移行しています。

明治4年、北野神社と改称。戦後、北野天満宮と改めています。

上掲の共同通信の記事で『源氏物語』を読解していた北野天満宮の「神職」というのは「菅原氏が世襲して」いたという「松梅院・徳勝院・妙蔵院の3つの祠官三家」の者のことだろうか。
さて、源高明は権力闘争に敗れて大宰府に追放されるということで、菅原道真を反復している。但し、道真は都に帰還することが能わず筑前大宰府で客死しているのに対して、高明は一応都への帰還は果たしているのだけど。なお、藤原定家は高明の娘、源明子と藤原道長の子孫ということになる。