日本では現在アニメ版が放映中らしいけれど、実写ドラマ版の『のだめカンタービレ』*1をDVDで視た*2。因みに原作のコミック本は読んでいない。
まあ、いいんじゃないでしょうか。竹中直人とか伊武雅刀といった脇役がいいし、一部では賛否が分かれているらしい「わざとらしさ」も全然OK。夏目房之介氏のblog*3から引用すれば、「基本的に竹中直人のシュトレーゼマンが出た時点で何でもアリだよ」ということになる。また、私としては秋吉久美子が見られたのも嬉しかった。それから、「のだめ」=上野樹里というのも、『スウィングガールズ』を観たときから上野樹里はお気に入りなので、問題なし*4。
ストーリーとしては、所謂〈学園物〉の定型を外していないというか、そのまんま東(とオヤジ・ギャグ)。それに子ども時代のPTSDの克服という趣向も加えられているというのは今の時代らしいか。ただ、視聴者に〈クラシック音楽〉について啓蒙してやろうという意図が千秋のオフ・ヴォイスを通じて表現されているのがうざいといえばうざい。
『のだめカンタービレ』を契機として、クラシック音楽がブームになっているとか、これにはYAMAHAの企業戦略が絡んでいるとかということがあるらしい*5。これについては、そうなんだということしかいえない。
このストーリーで、これどうよと思ったのは、のだめと千秋の対立についてなのだ。といっても、設定されたキャラクターに文句を付けたいのではない。2つのキャラクターが意味している特性の対立のさせ方に問題があるといいたい。出典がMixiの日記なので、はっきりと示すことができないのが残念なのだが、某(アイルランド文学とパンクと、それから最近ではアフリカに詳しい)英文学者の方が、(ドラマではなくコミック版を参照して)この物語を、野生の存在=「天然娘」がディシプリン(訓育)されることを通して主体化される物語として、文学研究におけるテクストや作家への態度と絡めて、読み解いておられる。一方では、プレイヤーの耳と指を頼りにした奔放なインプロヴィゼーション的な音楽、他方では楽譜や(そこに表現されている)作曲者の意図或いは作曲者の代理人としての指揮者の指示に忠実な音楽。物語はこの2つの対立を軸に進行していくわけだが、この対立って、ちょっとベタすぎないか。もっと一般化して、四角四面な大人の世界と存在論的にアナーキーなガキの世界の対立としてもいい。この対立は結論が常に既に見えている。大人になれとかもう若くないんだからといったクリシェを交えたお説教が聞こえてきそうでしょ? 或いは、Don’t trust over thirty.といいながら、いつの間にか40を過ぎちゃったという感じか。多分、こういう対立図式に胡散臭さを感じたが故に1980年代に脱構築などというコンセプトに惹かれたのだと思う、私は。「楽譜の中に無駄な音はひとつもない[だから、それに忠実に弾け]」という千秋ののだめへのお説教は、物語の中では野生の存在をドメスティケイトする言語行為として解するのが順当なのだろうけど、多分それは何かが生起する前触れ(前提)なのだ。テクストを漫然と読んでいても、テクストは自らを脱構築して現象させない。そこで生まれるのは凡庸な解釈だけだ。脱構築を見届けるためには丹念に(時には作者よりも丹念に)読む必要がある。かつて、ロバート・フリップ尊師は、ミュージシャンに要請されるのは自らの技術を捨て去ってしまうことのできる知性であると述べていた。これがこの物語の構造に感じた不満といえば不満である。
ところで、峰龍太郎の外面的な設定にはナイジェル・ケネディが参照されているのか。また、千秋を演じた玉木宏――〈鴨嘴博士〉ならずとも一瞬は玉置宏を想起してしまうぜ。
*1:http://wwwz.fujitv.co.jp/nodame/index2.html
*3:http://blogs.itmedia.co.jp/natsume/2006/11/post_3b40.html
*4:上野樹里のプロフィールについてはhttp://blog.goo.ne.jp/ni836000/e/c616870248f97e1963a5a1d18f62ba66が詳しい。 ところで、『読売』のインタヴューによると、上野さんの好みの音楽はジャズだそうだ(http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/yy/interview/20061025et02.htm)。
*5:Skeltia_vergberさん、そうですよね。まあ、「サントリー・ホールっていったら日本一のホール」という台詞には思わず笑ってしまいましたが。