「自民族方法論」

フーリガンの社会学 (文庫クセジュ)

フーリガンの社会学 (文庫クセジュ)

別にワールドカップの最中*1だからというわけではないが、ドミニック・ボダン『フーリガン社会学』(陣野俊史*2、相田淑子訳)を読み始めた。


(前略)前述の[スポーツのサポーターの]暴力行為は、実際には「実践的達成」でしかない。つまり長いプロセスの結果でしかないのだが、その長いプロセスは、スポーツ観戦のさまざまな役者たち(サポーター、運営者、警察官、ジャーナリストなど)のあいだにある微妙で複雑な社会的相互作用、アイデンティティーと文化構造の反映であるスポーツ上の敵対意識、挑発、ヴァンデッタ(復讐)などによって構成されている。(後略)(p.14)
「「実践的達成」」には

H・ガーフィンケル『自民族方法論における研究』、イングルウッド・クリフス、プレンティス・ホール社、一九六七年。
という註が振られている(p.14)。ガーフィンケルStudies in Ethnomethodology*3。それにしても、「自民族方法論」という訳語に吃驚! 殆どの社会学の教科書で、Ethnomethodologyというのは「エスノメソドロジー」とそのまま片仮名で表記されているのだろうけど、ちょっと意訳してみると、「当事者による方法(ethnomethod)」についての「論(-ology)」ということになる*4。まあ、訳の正確性とかとは無関係に、下田直春先生が1974年頃に考えた「常民生活研究法」という訳語はけっこう気に入っているのだけど。どうして「自民族方法論」という訳語が生まれたのか推測してみると、多分ethnocentrism/ethnocentrismeの影響じゃないか。この場合、「自分か中心主義」というのは定訳だろう。そこで、Ethno-を目にしたら、機械的に「自民族」としてしまったのでは? 「実践的達成」は英語の原文では(多分)practical accomplishmentだと思う。今時間の都合で、ガーフィンケルの本を直接チェックしてはいないのだけど、初めてこの本を読んだ時にはaccomplishmentという単語はかなり(自分にとって)目立っていたのだった。それまで、「達成」という意味でattainmentやachievementではなくaccoplishmentを使うというのは全然馴染んでいなかったのだった。
Studies in Ethnomethodology

Studies in Ethnomethodology

上に引用したパラグラフの後半部を引用しておく;

(前略)加害者の視点に立つのか被害者の側にいるのか、強者の側にいるのか弱者の側にいるのか、西洋に住んでいるのか戦地国家に住んでいるのか、治安の悪い場所にいるのか「瀟洒な」界隈にいるのか、男性なのか女性なのか、若者か老人かによっても、暴力への認識は変わる。暴力は、主観的にも客観的にもなりうるのだ(ヴィエヴィオルカ、一九九九年*5)。暴力は、その行使と認識の両面において、社会的、空間的、時間的に繋がっている。近代西洋社会で暴力と規定される事柄、少なくとも暴力であると感じられる事柄にしても、他の時代や地域で必ずしも同じ意味合いを持っているわけでない。(p.15)