yummy_13「生きているだけで偉いって」https://yummy-13.hatenablog.com/entry/2024/12/09/183428
この人は、「生きているだけで偉い」というフレーズに「違和感」を持っているという。それに対して、「この世界のどこかであなたが生きていると知れるだけで、私は安心する」というフレーズには「違和感」を持たないようだ。一見すると、この2つの表現は似ている。
「生きているだけで偉い」って言葉にめちゃくちゃ違和感がある。少ないかもしれないけど何回か言われたことがあって、言われて嬉しかったことも、救われたことも、生きる力が湧いてきたこともない。
代わりに体の中の柔らかいところに、小さい異物が存在感抜群でそこに生まれる。痛くないけど、気持ち悪い。
それを言う人の、その人なりの優しさや、気遣いを素直に受け止められないのはどうしてなんだろうといつも考えてしまいつつも、その人なりの優しさや、気遣いを疑っている自分がいるのだ。
「生きているだけで偉い」と言われる立場のひとってだいたい限定されているのではないかな、と思う。
もう生きていけない、死にたい、仕事したくない、それ以前の生活そのものがしたくない、現実が苦しい、とかきっとそういう人に向けて言われる言葉だ。
そしてそれを言う側の人間は、きっとちゃんと正社員で働いていて、特におおきな悲しみなどはなくて、基本的には満たされた人生を送っている人なのではないだろうか。
「生きているだけで偉い」という言葉の支点は言われた人側にしかない、とても不安定で孤独な言葉な気がする。そこにはその言葉を発した側の人の関与なんてものはなく、何の物差しもない、空想の中で言われている言葉のようなものだ。なのに「偉い」という評価・ジャッジがそこにはある。状況や言葉遣い、言い方にもよるのかもしれないが、だからこそあたたかさなんてものはなく、現実感をもって私の中に入ってこない。だからわたしの心は悲しい色でじわじわと湿っていたのだ。
それに対して、
その関わりの中の一人の友人が結婚したので、連絡をして、プレゼントを贈った。会いに行けなくて、情けなくてごめんというようなメールを送ったら、返事の中にこんな言葉があった。
「この世界のどこかであなたが生きていると知れるだけで、私は安心する」
わたしのことを考えてくれた優しさの言葉だと、素直に感じられた。「生きているだけで偉い」「生きているだけでいい」「ありのままでいい」みたいな言葉よりもずっと分厚くて、意味があって、悲しくない。そこには良い悪いや普通普通じゃないみたいなジャッジが絶対的になくて、言葉を紡いだその子が、ちゃんとわたしに関わろうとしてくれた言葉だと思った。
「生きているだけで偉い」というフレーズには、上から目線があり、そして「ジャッジ」がある。その「ジャッジ」(「評価」)というのは「偉い」ということだけでなく、「生きている」ということを、他の~するという他の諸々の〈生きているだけでない〉ことと同列化していることに表れている。その「ジャッジ」によって、「生きているだけ」は諸々の〈生きているだけでない〉ことの末端に位置づけられてしまう。それに対して、「この世界のどこかであなたが生きていると知れるだけで、私は安心する」には「ジャッジ」は感じられていない(「 そこには良い悪いや普通普通じゃないみたいなジャッジが絶対的になくて」)。「ジャッジ’」の不在によって、〈病めるときも健やかなるときも〉〈富めるときも貧しきときも〉という意味での普遍性を獲得している。別の言葉で言えば、「生きているだけで偉い」は本質存在に関与し、「この世界のどこかであなたが生きていると知れるだけで、私は安心する」は実存
*1に関与しているといえるだろうか。