やはり紙?



ID:nessko


「ネコ無事に戻りました」のポスター
https://x.com/jin_harada/status/1877927380200616445

律儀な方なんでしょうね。

Xだと、「イヌ/ネコが行方不明、見つけた方連絡ください」とポストした方が、
「無事保護されました。ありがとうございました」
と、その後ポストすることはよくあります。

そうですね。ところで。ところで。このツィート、既に削除されちゃったのかな?
さて、犬猫の失踪にはやはりツイッターやインスタグラムのようなソーシャル・メディアは役に立たないですよね。別にご近所さんがフォローしているわけでもないし、「おすすめ」にご近所さんの投稿が流れてくるわけでもない。やはりポスターのような紙メディアですよね。〈無事見つかりました〉ツィートは、呼びかけの効果を感謝するというより、そういう日常生活のエピソードの(フォロワーへの)報告なのでしょう。

2つのフレーズ

yummy_13「生きているだけで偉いって」https://yummy-13.hatenablog.com/entry/2024/12/09/183428



この人は、「生きているだけで偉い」というフレーズに「違和感」を持っているという。それに対して、「この世界のどこかであなたが生きていると知れるだけで、私は安心する」というフレーズには「違和感」を持たないようだ。一見すると、この2つの表現は似ている。


「生きているだけで偉い」って言葉にめちゃくちゃ違和感がある。

少ないかもしれないけど何回か言われたことがあって、言われて嬉しかったことも、救われたことも、生きる力が湧いてきたこともない。

代わりに体の中の柔らかいところに、小さい異物が存在感抜群でそこに生まれる。痛くないけど、気持ち悪い。

それを言う人の、その人なりの優しさや、気遣いを素直に受け止められないのはどうしてなんだろうといつも考えてしまいつつも、その人なりの優しさや、気遣いを疑っている自分がいるのだ。

「生きているだけで偉い」と言われる立場のひとってだいたい限定されているのではないかな、と思う。

もう生きていけない、死にたい、仕事したくない、それ以前の生活そのものがしたくない、現実が苦しい、とかきっとそういう人に向けて言われる言葉だ。

そしてそれを言う側の人間は、きっとちゃんと正社員で働いていて、特におおきな悲しみなどはなくて、基本的には満たされた人生を送っている人なのではないだろうか。


「生きているだけで偉い」という言葉の支点は言われた人側にしかない、とても不安定で孤独な言葉な気がする。そこにはその言葉を発した側の人の関与なんてものはなく、何の物差しもない、空想の中で言われている言葉のようなものだ。なのに「偉い」という評価・ジャッジがそこにはある。

状況や言葉遣い、言い方にもよるのかもしれないが、だからこそあたたかさなんてものはなく、現実感をもって私の中に入ってこない。だからわたしの心は悲しい色でじわじわと湿っていたのだ。

それに対して、


その関わりの中の一人の友人が結婚したので、連絡をして、プレゼントを贈った。会いに行けなくて、情けなくてごめんというようなメールを送ったら、返事の中にこんな言葉があった。

「この世界のどこかであなたが生きていると知れるだけで、私は安心する」

わたしのことを考えてくれた優しさの言葉だと、素直に感じられた。「生きているだけで偉い」「生きているだけでいい」「ありのままでいい」みたいな言葉よりもずっと分厚くて、意味があって、悲しくない。そこには良い悪いや普通普通じゃないみたいなジャッジが絶対的になくて、言葉を紡いだその子が、ちゃんとわたしに関わろうとしてくれた言葉だと思った。

「生きているだけで偉い」というフレーズには、上から目線があり、そして「ジャッジ」がある。その「ジャッジ」(「評価」)というのは「偉い」ということだけでなく、「生きている」ということを、他の~するという他の諸々の〈生きているだけでない〉ことと同列化していることに表れている。その「ジャッジ」によって、「生きているだけ」は諸々の〈生きているだけでない〉ことの末端に位置づけられてしまう。それに対して、「この世界のどこかであなたが生きていると知れるだけで、私は安心する」には「ジャッジ」は感じられていない(「 そこには良い悪いや普通普通じゃないみたいなジャッジが絶対的になくて」)。「ジャッジ’」の不在によって、〈病めるときも健やかなるときも〉〈富めるときも貧しきときも〉という意味での普遍性を獲得している。別の言葉で言えば、「生きているだけで偉い」は本質存在に関与し、「この世界のどこかであなたが生きていると知れるだけで、私は安心する」は実存*1に関与しているといえるだろうか。

童門冬二

NHKの報道;


作家 童門冬二さん死去 96歳「小説 上杉鷹山」など手がける
2025年1月13日 0時01分


ベストセラーとなった「小説 上杉鷹山」など、数多くの歴史小説やエッセーを手がけた作家の童門冬二さん*1が、がんのため亡くなりました。96歳でした。

童門さんは東京生まれで、東京都の職員として勤務するかたわら作家活動にあたり、1960年に発表した「暗い川が手を叩く」が芥川賞の候補となりました。

当時の美濃部亮吉 都知事のスピーチライターを務めていましたが、知事の退任とともに1979年に都庁を退職して専業作家になり、在職中の経験を生かして組織やその中で生きる人たちを題材に、戦国時代の武将や幕末に活躍した志士などを描いた歴史小説を数多く手がけました。

なかでも1983年に刊行され、江戸時代に米沢藩財政再建に尽力した上杉鷹山の生涯を描いた「小説 上杉鷹山」はベストセラーとなりました。

その後も多くの作品やエッセーを発表し、精力的に執筆活動にあたっていましたが、家族によりますと、おととしごろから体調を崩し、去年1月13日にがんのため都内の病院で亡くなったということです。96歳でした。

童門さんは生前、亡くなって1年は公表を控えてほしいと話していたということです。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250112/k10014691491000.html

童門さんが美濃部都政のスタッフだったということを知ったのは、物書きとして人気の出た1980年代のことだったと思う。
童門冬二から思うのは、「歴史」というものの再生産の仕方であり、その消費のされ方である。

「最悪のタイミング」

冨原眞弓『シモーヌ・ヴェイユ*1から。
シモーヌ・ヴェイユが労働運動に関わり始めた頃の仏蘭西労働運動一般の状況は、社会党系の「労働総同盟(CGT)」と共産党系の「統一労働総同盟(CGTU)」との分裂であった(p.27ff.)。


(前略)ヴェイユは最悪のタイミングで社会と対峙したのである。あるいは、そのおかげではやく革命幻想に見切りをつけ、労働組合の限界を知ることができたというべきか。この経験はマルクス主義の再考をうながすきっかけにもなった。
当時のヴェイユは、なによりもまず人間の意志の力を信じるデカルト主義者である。また、正統派といってもよいマルクス主義者らしく、きたるべきプロレタリア革命において、労働組合共産党がはたすべき役割を信じていた。そのうえ、フランスの伝統的サンディカリストでもあったので、革命の主人公たるべき「覚醒せるプロレタリアート」とは、職人かたぎの熟練労働者の発展形であるとも考えていた。労働者を犠牲にするだけの組合の分裂を憂えたからこそ、CGTとCGTUを再統合すべく奔走したのだ。しかし再統合も修復もならず、フランスの労働運動はしだいに求心力を失っていく。やがて一九三二年、ドイツの労働組合共産党の硬直化をまのあたりにしたヴェイユは、以後いっさいの組合や党に愛想をつかす。これら既存の組織は主導権争いに腐心し、共通の敵であるナチズムやスターリニズムと闘う気概もなく、労働者たちをみすみす見殺しにしたからだ。こうしてアラン譲りの楽観的な革命観は、一年たらずで深刻な修正をせまられることになる。(pp.29-30)

統合失調症(メモ)

統合失調症*1についての、(恐らく)精神科医のツィート。頷くこと大だったので、取り敢えず貼っておく。

*1:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20060511/1147353060 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20070922/1190398185 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20071206/1196915428 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20080109/1199847126 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20090706/1246906032 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20100724/1279929205 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20110807/1312715074 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20130928/1380386655 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20131002/1380739919 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20131023/1382485574 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20131121/1385003012 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20150309/1425909192 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20150313/1426180154 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20150521/1432228524 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20150613/1434169171 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20150711/1436638780 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20160128/1453958355 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20160418/1460956071 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20161002/1475384800 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20161104/1478225290 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20161125/1480088706 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20161217/1481992717 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20171009/1507517956 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20180312/1520863098 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20180410/1523339868 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20180926/1537924794 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/01/19/223532 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/07/05/101121 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/09/03/235827 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/12/21/090515 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/12/27/022324 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/07/09/134900 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/10/01/212242 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/08/09/023753 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/05/10/090001 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/05/12/102050 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/08/13/100857 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2023/12/13/113450 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/04/25/154924 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/05/31/103731

「官位」のこと

熊倉功夫後水尾天皇*1から。
「禁裏の権限を制限し、さらに幕府の支配力を強化する施策」(pp.54-55)としての「武家官位」について。


権力の座から離れた天皇の権限といっても、もはや実質的な意味を持つものもなく、権威の象徴としての官名・位階・称号授与の権と年号制定の権が主たるものであった。幕府はそのうち、官位・称号授与について、まず制限を加えてきた。
たとえば「越中守」とか「和泉守」といった国司号は内容を伴わない称号に過ぎないが、戦国時代以来の新興武士にとって魅力ある官名だった。だから機を得ては、ときの権力者の許可を得て朝廷より授与されることを求めたのである。当然、こうした国司、あるいはその他の官職には、それぞれ対応する位階があるわけで、たとえば「従五位下信濃守」といように「従五位下」という位と「信濃守」という官が、一般の大名クラスに許される称号である。さらに大大名であれば『公卿補任』(略)に載せられるような高い官位につく。早い話が徳川家康従一位右大臣であった。
こうした官位の制について、徳川家康は公家と武家を分離し、武家の官位は朝廷とは別に幕府において定めることを、禁裏に申し入れている。慶長十六年(一六一一)のことだ。理由は、公卿の員数には制限があり、大量の武士を登録するわけにはゆかないし、国司の官名でも、二人も三人も遠江守がいるのはおかしいが、大名の数が多いのだからやむをえない。その矛盾を解決するためだという。武家については自由に定め、公家方とは抵触しないように武家の官位を補任記等には書き載せないことにしたらよい。この申し入れは、一見、公家の官位を圧迫せぬから公家にとっても好都合のようにみえるが、実質は官位授与権が一部割譲されることになり、朝廷としては大きな譲歩だった。もっとも、実際に武家官位の分離が実現するのは、家康が歿したのちの元和六年(一六二〇)以後であった。(pp.55-56)