栗田勇

共同通信の記事;


栗田勇さん死去 作家、評論家
6/6(火) 20:17配信


共同通信

 フランス文学研究や、評伝「一遍上人」など日本文化に関する評論・創作活動で知られる、作家で評論家の栗田勇(くりた・いさむ)さん*1が5月5日午前6時半、老衰のため死去した。93歳。葬儀は近親者で行った。

 東京大文学部仏文科を卒業。日本で初めて「ロートレアモン全集」の個人訳を手がけた。文学や演劇、美術など幅広い分野で活躍した。

 代表作に芸術選奨文部大臣賞を受賞した「一遍上人」や、「わがガウディ」「最澄」「芭蕉」など。道元良寛千利休、一休らについても執筆し、日本の文化と精神の在り方を思索し続けた。1999年に紫綬褒章
https://news.yahoo.co.jp/articles/d9f15d9916e88e4be4fde8445d6bdbd699f19965

嗚呼!

母音の一致?

Via https://nessko.hatenadiary.jp/entry/2023/06/07/093941

共同通信の記事;


未完譜に映画「ゴジラ」の音列 若き日の伊福部さん作曲
6/5(月) 7:52配信


共同通信

 ドシラ、ドシラ―。印象的な音列を繰り返し、世にインパクトを与えた映画「ゴジラ」(1954年)のテーマ曲を手がけた作曲家の伊福部昭さん*1(2006年死去)。伊福部さんが映画公開の約20年前、19歳で書いたとみられる未完成の楽譜に、ゴジラの曲を象徴した音列が多く登場していたことが、弟子でソプラノ歌手藍川由美さん(67)による楽譜の校訂で判明した。

 藍川さんは「伊福部音楽の原点に触れる大きな発見」と語る。

 楽譜のタイトルは「平安朝の秋に寄する三つの詩」。伊福部さんが日本の音楽の伝統的な手法を生かし、小野小町らの和歌に曲を付けた。藍川さんが全90小節を校訂し、音符や歌詞の欠落や書き間違いを修正したところ、ゴジラの曲に登場する「ラシド」が47回、「ドシラ」が30回、循環するように配置されていた。

 楽譜は、独学で作曲を学び、旧北海道帝国大生だった伊福部さんが1933年、札幌を訪れていた声楽家の荻野綾子さんに献呈するために慌てて書いたとみられる。2007年に東京芸術大付属図書館で見つかった。
https://news.yahoo.co.jp/articles/ae05906d63a4a287ee46aa9f9fa800b3df46c310

伊福部が教鞭を執っていた東京音楽大学ではなくて藝大なのね! 
ところで、「ドシラ」と「ゴジラ」、母音がオイアと一致するのは偶然だろう。日本式にいうとハロイになってしまう。

検索できる

「雑談。」https://chazuke.hatenadiary.jp/entry/20230606/1686015385


曰く、


大分・中津清源法律事務所を検索すると性行為を強要して自殺に追い込んだニュースが

爆速で消された(?)ようでなんとこの過疎ブログが検索上位に来る!

こりゃー、またはてなの運営に「NOT FOUND」にされると心しておかねば。
(後略)

「中津清源法律事務所」を鍵言葉に検索をかけて、その「性行為を強要して自殺に追い込んだニュース」というのは普通に上位でヒットする。
例えば、NHK大分放送局;

弁護士自殺は性的被害の可能性 元上司らに支払い命じる判決
04月21日 18時46分


大分県中津市の法律事務所に所属していた弁護士の女性が、事務所の代表だった元弁護士から性被害を受けて自殺したとして女性の遺族が損害賠償を求めた裁判で、大分地方裁判所は元弁護士からの性的被害などによって自殺した可能性が高いと認め、元弁護士と事務所に対し合わせて1億2800万円余りの支払いを命じる判決を言い渡しました。

この裁判は、中津市の「清源法律事務所」に所属していた30代の弁護士の女性が平成30年8月、事務所の代表だった清源善二郎 元弁護士から継続的に性被害を受けて追い詰められて自殺したとして、遺族が清源元弁護士と事務所に対し、慰謝料などを求めていたものです。

21日の判決で大分地方裁判所の石村智裁判長は、女性が自殺したのは事務所の代表で上司だった清源元弁護士から性的被害を受けたことなどが原因だった可能性が高いと認定し、元弁護士と事務所に対し合わせて1億2800万円余りの支払いを命じました。

判決を受けて遺族はコメントを発表し「娘は私たち家族の希望でした。ただ普通に働くことができたなら、娘もこれから地元や社会に貢献できる弁護士になることができたはずです。このような娘の人生を踏みにじった被告らには、きょうの判決を受け止め、娘に心から謝ってもらいたいと思います」としています。

また、被告側の弁護士は「意外な判決に驚いている。判決文の内容を検討したうえで、今後、どのようにするか考えたい」と話しています。
https://www3.nhk.or.jp/lnews/oita/20230421/5070015622.html

また、『朝日』の、


奥正光「女性弁護士自殺、元弁護士会長による性被害認定 1億円超の賠償命令」https://www.asahi.com/articles/ASR4P6SBHR4PTIPE01G.html



や、清源家の人々の大分県における「名士」ぶりを記述した


デイリー新潮編集部「部下に性加害、自殺に追い込んだ69歳「元弁護士」 立派すぎる経歴と「恋愛関係だった」という釈明に感じる落差」https://news.yahoo.co.jp/articles/417cabb40a95e771f5e45b611ab708061bbaa379


も、トップではないけれど、上位(検索の1頁目)に表示されている。

写真たち

神戸新聞』の記事;


哲学者・三木清の遺品写真の調査進む ハイデッガーの貴重なネガなど100枚以上発見
6/3(土) 16:00配信


神戸新聞NEXT

 兵庫県たつの市出身の哲学者・三木清(1897~1945年)*1の遺品から100枚以上の写真が見つかり、昨年、同市立霞城館*2に寄贈された。ただ添付資料が乏しく、人物や撮影日時が分からない写真ばかり。調査の結果、世界的哲学者のハイデッガー(1889~1976年)ら多数の著名人が写っていたことが分かった。未公開とみられる写真もあり、三木の新たな一面もうかがい知ることができる。(直江 純)

 写真は三木の遺族から寄贈された。三木は最初の妻・喜美子さんを1936年に亡くし、自身も治安維持法違反で拘束されていた45年9月26日に獄中死した。2人の間に生まれた一人娘の永積洋子さんは歴史学者となり、東大教授として活躍した。

 永積さんは父の三木について多くを語らないまま高齢になり、写真の由来が親族にも分からなくなった。一部には三木の直筆で裏書きがあったが、多くは撮影時期も不明だった。

 このため、三木清研究会の室井美千博事務局長(73)=太子町=はたつの市教育委員会の義則敏彦専門員らと写真をすべてスキャンし、手分けして調査にあたった。近現代史好きの記者も参加した。

     ◇

 室井さんが最も注目したのは1枚のネガだった。「これ、もしかしたらハイデッガーかもしれませんよ」。日頃は物静かな室井さんが興奮を隠せない。ハイデガーとも表記され、三木がドイツ留学中の23年に師事した20世紀最大の哲学者だ。

 ネガは白黒で縦12・5センチ、横約8・5センチの大判カメラ用。霞城館が業者に依頼してスキャン画像にすると、若き日のハイデッガーのりりしい表情が浮かび上がった。自らの書斎らしき部屋でくつろいだ表情だ。

 三木が当時を回顧した随筆「ハイデッゲル教授の思い出」には誰の紹介状も持たずに教授宅を訪問したと書かれている。ドイツ古典文学の全集が並ぶ書斎で2人はアリストテレスについて語り合ったという。

 長寿だったハイデッガーの写真は多く残っているが、今回の類似カットは国内の研究者にも知る人はいなかった。室井さんは「画質の精細さから見ても複製ではなく原板ではないか。三木にネガを託したとすれば、師弟の距離の近さを示す新たな資料となる」と期待している。

 記者が担当したのは三木がフィリピンに徴用された戦時中の写真だった。陸軍報道班員の仲間だった石坂洋次郎(1900~86年)*3と三木の2ショットには三木独特のくせ字で石坂の名が書かれていた。石坂は戦後の「青い山脈」が代表作だが当時から流行作家だった。

 別の集合写真には「昭和17年 マニラホテルにて」との裏書きもあった。三木と石坂と並んで小説「人生劇場」で人気を博した尾崎士郎(1898~1964年)に似た男性がしかめっ面で立っている。

 この写真について、尾崎ゆかりの東京・大田区立郷土博物館に問い合わせたが、「断定しづらい」との回答だった。

 次に実践女子大非常勤講師の須山智裕さん(28)に連絡した。須山さんは石坂ら徴用作家を専門に研究している。「尾崎はフィリピン滞在時、のどを傷めて包帯を巻いていたとの記述があります。丸刈りも別の写真と一致します。間違いないですね」

 寄贈写真には、三木の婚礼写真や、一人娘らしき幼児を抱く夫妻など、家族思いだった三木の人柄が伝わる写真も含まれている。

 霞城館の松尾壮典館長は、和服姿の三木の代表的な肖像写真をネガで入手できたことを喜ぶ。「これまでは粗い複製データしかなかったが、今後はより美しい画像を外部にも提供できそうだ」と話す。

 霞城館では6月27日から今回の発見写真の企画展を計画している。同館TEL0791・63・2900


三木清】龍野中(現龍野高)から一高、京都帝大へ進み西田幾多郎に師事。1922~25年にドイツ、フランスに留学した。40~41年に出版した「哲学入門」「人生論ノート」がベストセラーになったが、45年3月に共産主義者の友人をかくまったとして治安維持法違反の疑いで逮捕され、終戦後も釈放されないまま同年9月26日に獄中死した。
https://news.yahoo.co.jp/articles/6046f2f26747d3f60579944e704332c66de24be3

永積洋子さん*4三木清の娘であることは知らなかった。また、Wikipediaを見ると、歴史人口学の速水融*5の父親で哲学者の速水敬二*6三木清の妻、喜美子の実弟であり、永積洋子と速水融はイトコ同士になる。また、農業経済学者の東畑精一*7は敬二の実兄であり、洋子の伯父になる*8

真言VS. 天台

承前*1

女性自身「市川猿之助 主演公演中の心中騒動で仲間からの信用は地に…囁かれる“贖罪出家”の道」https://news.yahoo.co.jp/articles/016953814aa67e1fade061767918085d7d2764d0


この記事、神林広恵さん*2に勝手に「出家」を勧めるなとdisられているのだった*3。しかし興味深いことは否定できない。
某「歌舞伎関係者」の言葉;


「座頭公演の最中に、座頭自らが舞台を投げ出すなんて親が死んでもしてはいけないというのが梨園の掟。ましてや一家心中なんて……。才能も人気もあった猿之助さんでしたが、仲間からの信用は地に落ちてしまったんです。このまま表舞台から退くことになるでしょう。猿之助さんはもともと仏の道に興味を持っていました。両親への贖罪のため、出家することも考えていると思います」

すでに家族のために出家の儀式「得度」を受けた歌舞伎役者がいる。市川團十郎(45)だ。

海老蔵時代の’16年、屋号『成田屋』の由来となった成田山新勝寺で『生まれ変わる』と言って得度したのです。当時、乳がんを患っていた麻央さんの闘病のため、『自分に鞭を入れる意味で受けた』と話していました」(團十郎の知人)

猿之助は幼少期から仏教への関心があった。亡くなった母・延子さんはかつてこう語っていた。

《子供ってたいていデパートのおもちゃ売り場に行きたがるのに、あの子はね小さいときから『ねえお母さん、仏壇屋さんに連れていって』と言うて、お店で『僕このお厨子が欲しいな』って言う子でしたわ》(『SAY』’93年4月号)

長じて、猿之助の仏教への情熱はさらに高まっていった。

猿之助さんの歴史や骨董好きは有名ですが、私の誕生日が伊勢湾台風の上陸日だと話したら、伊勢市内で倒木整理作業中に発見された線刻阿弥陀三尊来迎鏡像という遺物の話を熱心にしていました」(猿之助の知人)

猿之助は’03年に比叡山延暦寺初の歌舞伎上演『比叡山薪歌舞伎』に出演。以後、定期的に比叡山に足を運ぶようになった。

「’16年には比叡山で命がけの荒行『千日回峰行』を成し遂げた僧侶との対談本も出版。同年、大津市内の延暦寺会館で開かれた『比叡山仏教文化講座』では約430人の聴衆の前で講演しています。猿之助さんいわく、天台宗の特徴は『誰もが仏になれ、自分が悟りを開けば他人を救うように説いていることではないか』と語っていました。当時、連載していた新聞に『比叡山への憧れ』なるコラムも書いています」(地元紙記者)

仏教への傾倒は、瀬戸内寂聴さん(享年99)との対談でも明らかだ。寂聴さんから歌舞伎で同じ台本を何度も繰り返し演じて退屈しないかと問われた猿之助は、こう答えている。

《退屈することもあります。嫌になるときもあります。私は仏教の修行の経験はありませんが、ちょっと比叡山千日回峰行に近いところがある。一旦始めたら、止めるときは命を絶つときだ、という。まさに難行苦行です》(『the寂聴』’10年9月15日発行)


’20年、猿之助は「没後1千200年 最澄の足跡」というインタビューで、天台宗の開祖である最澄について、こう語っていた。

《かく言う私は、何を隠そう最澄さんの大ファンである。どれくらいファンかというと、不遜ながら、最澄さんその人になってしまいたいくらいにファンである(中略)。だから、ついつい出過ぎてしまいそうな時には、いつも最澄さんの生き方を思い出すように心掛けている》(『毎日新聞』’20年11月28日号)

翌年、延暦寺で行われた1千200回忌法要では最澄の「聖句」を朗読していた猿之助。当時、“出すぎてしまう”自覚が本人にあったのか。前出の歌舞伎関係者は言う。

猿之助さんはもともと“俺は亀治郎のままでいい”と言っていたほど、名跡には興味がなく、ガツガツしていませんでした。それが猿之助を襲名してからは、テレビでも饒舌になり、上品さを感じなくなりました。私はそれを心配して、本人にも『亀治郎時代のほうがよかった』と言ったことがあるんです。本人は『そう?』と首をかしげていましたが、猿之助になったプレッシャーは強く感じていたことでしょう」

父・段四郎さんは四代目だったが、初代市川段四郎の墓は都内の正源寺にある*4。本堂にまつられている地蔵菩薩猿之助が奉納したものだという。住職に話を聞いた。

――猿之助さんはこちらに墓参されていましたか。

「たまにですかね。初代のお墓があるので、いらっしゃってました」

――事件についてどうお感じになりましたか。

「いや、本当にショックですよ。なんでこんなことになってしまったんでしょう……。またいつかいらしたら、いろいろとお話ししたいですね。なぜこんなことを……」

いまだ心の整理がついていないようだった。

猿之助さんは元来、信心深い方でした。比叡山で修行し、残りの人生、悔い改めることが両親へのせめてもの罪滅ぼしなのではないでしょうか」(前出・歌舞伎関係者)

ここに出てくる深川の「正源寺」は浄土宗の寺。成田屋團十郎真言宗なのに対して、猿之助天台宗、特に最澄伝教大師)に惹かれているというのは興味深い。

新美俊宏

山本恭司*1のツィート;

『音楽ナタリー』の記事;


BOWWOWのドラマー・新美俊宏が癌のため死去
6/1(木) 23:28配信


音楽ナタリー
BOWWOWのドラマー・新美俊宏が癌のため5月27日に亡くなった。

これは同じくBOWWOWのメンバー・山本恭司が自身のTwitterアカウントで発表したもの。新美は今年5月に体の異変を感じ医者の診察を受けたところ、すでに癌が全身に転移したステージ4であることが判明したという。山本が面会に訪れた5月18日の時点では冗談を交えての会話もできたが、27日夜に容態が急変したと伝えられている。山本はツイートの中で「最高の音色とビートを持ったドラマー、幾つになっても可愛く優しいやつでした。『ニイミ、今までありがとう。まだまだ先のことだろうけど、いつかまたそっちの世界でみんな揃うから。待っててな』」と、新美に向けてのメッセージを送っている。

なお葬儀は親族とバンド仲間のみで本日6月1日に執り行われた。
https://news.yahoo.co.jp/articles/baf2ea617bf96d7c5ce2fac94e37607618e23aa3

BOWWOWがデビューするまで、ロック・バンドというのは大体団塊の世代の人々が担っていた。渋谷陽一がプッシュしたということもあるけれど、BOWWOW、そのデビュー・アルバムの『吼えろ!BOWWOW』は、自分に近い世代のロックが遂にメジャーに登場したんだという感激があったのだった。See also


「【R.I.P.】日本のハード・ロック・シーンの礎を築いたBOW WOWのドラマー、新美俊宏急逝」https://drumsmagazine.jp/news/r-i-p-toshihiro-niimi/

上岡龍太郎

『スポーツ報知』の記事;


上岡龍太郎さん、10年前からがん闘病も力尽く 芸能界引退から23年 81歳ひっそりと逝く 
6/3(土) 5:00配信


スポーツ報知

 人気テレビ番組「探偵!ナイトスクープ」の司会などで活躍した元タレントの上岡龍太郎(かみおか・りゅうたろう、本名・小林龍太郎=こばやし・りゅうたろう)さん*1が5月19日、肺がんと間質性肺炎のため大阪府の病院で死去したことが2日、明らかになった。81歳。葬儀はすでに親族で密葬で営まれ、お別れの会は行わないという。毒舌交じりの率直な話術で人気絶頂だった2000年に芸能界から引退。還暦前の引き際は話題になった。

 忖度(そんたく)なしで物事に鋭く切り込む話術で人気を博した関西演芸界のレジェンドが、ひっそりと息を引き取った。

 上岡さんは2000年の引退後は、大好きなゴルフを楽しむなど悠々自適の生活だった。長男で映画監督の小林聖太郎(しょうたろう)氏(52)の「大ファン」と明言。聖太郎氏の監督作で「ナイトスクープ」の局長後任だった俳優・西田敏行(75)が出演した「マエストロ!」(15年公開)は「44回見た。息子が『監督より多い』と(笑い)」と子煩悩ぶりを語っていた。妹の息子の兄弟漫才コンビ「ミキ」の活躍ぶりにも注目していたという。

 その裏で、10年ほど前からがんと闘ってきた。聖太郎氏はこの日、コメントを発表。「昨年秋頃、積極的治療の術がなく本人も延命を求めていない、と知らされた時に少しは覚悟しておりましたが、あれよあれよという急展開で母も私もまだ気持ちが追いついていない状態です」と説明した。

 上岡さんは1942年、京都市生まれ。京都西高卒業後、バンドボーイを経て、横山ノックさん(07年死去)に誘われ、横山パンチの芸名で「漫画トリオ」を結成。「パンパカパ~ン! 今週のハイライト」のフレーズで始める時事漫才で人気となった。

 68年、ノックさんの参院選出馬でトリオを解散後、婿養子だった父方の旧姓を使った上岡龍太郎の芸名で1人で活動を開始。ノックさんと再タッグを組んだ「ノックは無用!」「ラブアタック!」などで関西のテレビ界を代表する司会者に。笑福亭鶴瓶(71)と打ち合わせなしのフリートークを展開する「鶴瓶上岡パペポTV」(87~98年)や初代探偵局長(88~00年)を務めた「探偵!ナイトスクープ」は関西ローカルを飛び出し、その毒舌ぶりは全国区になった。

 しかし、番組での舌禍騒動も多く「私の芸は21世紀に通用しない」との口癖通り、芸能生活40周年の2000年4月をもって引退。働き盛り、58歳での引き際だった。その後、表舞台に立つことはなかった。

 父親について聖太郎氏は「とにかく矛盾の塊のような人でした。父と子なんてそんなものかもしれませんが、本心をうかがい知ることは死ぬまでついにかなわなかったような気もします」と回顧。「弱みを見せず格好つけて口先三寸…。運と縁に恵まれて勝ち逃げできた幸せな人生だったと思います。縁を授けてくださった皆様方に深く感謝いたします」と結んだ。

 自称「恵まれない天才」は、天国でニヤリと笑っているに違いない。


 ◆上岡 龍太郎(かみおか・りゅうたろう)本名・小林龍太郎。1942年3月20日、京都市生まれ。60年に「横山パンチ」の芸名で横山ノック横山フック(初代)との「漫画トリオ」でデビュー。68年の解散後はピン芸人として関西で司会者として活躍。90年にはフジテレビ系「上岡龍太郎にはダマされないぞ!」で東京進出を果たす。2000年に芸能界を引退。身長165センチ。血液型AB。

報知新聞社
https://news.yahoo.co.jp/articles/30d911195d814cc05fc1849e3da200bbc90c08ec

「パンパカパーン」は知っているものの、「漫画トリオ」のことはよく知らず、東京(全国ネット)進出した平成初めまで、上岡龍太郎というのは殆ど知らなかったのだった。この人、昔横山ノックと一緒にやってたんだ! という感じ。
Wikipediaを見たら、島田紳助主演の井筒和幸の『ガキ帝国』*2に出ていたことを知った。See also


「元タレントの上岡龍太郎さん 死去 81歳 関西を中心に活躍」https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230602/k10014086691000.html