morningrain*1「柴崎友香『わたしがいなかった街で』」https://morningrain.hatenablog.com/entry/2023/01/18/225907
『わたしがいなかった街で』*2を再び捲ろうと思い、部屋の彼方此方を、小一時間ほど探したけれど見つからず、諦めていたところ、殆ど死角的な場所で、この本が背中を露わにしているのが見つかった。
さて、「「おおっ」と思わせる小説」だという。確かに。最大の「おおっ」は視点の乗っ取りでもいうべき事態だろう。この小説は「わたし」(「平尾砂羽」)の一人称の語りで始まる。しかし、途中から「葛井夏」の視点の語りが登場して、その三人称の存在感は「わたし」(「平尾砂羽」)の一人称とためを張ってしまう。曰く、「もうひとりの主人公」! どうしてこんなことが可能なのか? 作者様がそのように設定したからだという答えに納得する人は21世紀にはそれほどいないだろう。そうだとしても、作者はこういうことがplausibleであるような、どのような語りの情況を設定したのか? という問いが生まれてしまう。ヒントになりそうなことがひとつある。この小説には、「わたし」と「葛井夏」のほかに、もう一つの視点が存在している。SF作家の海野十三*3である。随所に『海野十三敗戦日記』からの引用が鏤められている。海野の言葉は、普通の地の文(「わたし」や「夏」の語り)とは微妙に違うフォントが使われているので、それだけで区別できるといえば区別できる。しかし、そんな違いなんか見過ごされてしまうという可能性もある。また、海野十三の引用の後に 普通の地の文に戻る場合は、原則として2行空白が空けられている。今読み返して驚いたのだけど、第19節、文庫版のp.222からp.223にかけて、1頁以上にわたって『海野十三敗戦日記』から引用が行われ、頁が改まって、p.224に入ると、「わたしは、かつて誰かが生きた場所を、生きていた。」という「平尾砂羽」が置かれる。それで、 第19節は終わり、2行空けて、第20節が始まる。
*1:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20060915/1158340807 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20131228/1388192793 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/01/03/140102 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/03/16/110220
*2:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/06/28/103403 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/08/26/112611
*3:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20171218/1513593271