〈間〉の話

ピアノ・サンド (講談社文庫)

ピアノ・サンド (講談社文庫)

平田俊子『ピアノ・サンド』*1を読了したのは先々週のこと。


ピアノ・サンド
ブラック・ジャム
方南町の空 かなり長めの「あとがき」


解説(角田光代

この本を読んだ後、(最近では珍しいことだが)ノートに手書きでメモ書きをしたのだった。以下、そのメモ書きを、てにおはのついた文章に直して、再現してみる。
「ピアノ・サンド」という中篇を一言で乱暴に要約してしまうと、


〈間〉の話


ということになる。タイトルの「サンド」は、麺麭と麺麭の間に具が挟まれたものだ。ここでは様々な〈間〉が提示される。「わたし」は過去(結婚生活)と現在(独身生活)の間に宙吊りにされている。また、現在についていえば、2人の男、不倫関係にある「槙野」や「ずっと以前わたしが広告会社に勤めていたときの後輩」で、「気が置けない唯一の異性」(p.11)である「諏訪」と、微妙なバランスを保っている。また、〈間〉が曖昧性や緊張関係ということではなく、全き異次元性を帯びてしまうこともある。自らが住むマンションのエレヴェーターで、5階のボタンと6階のボタンを一緒に押してしまったために迷い込んだ*2、実在しえない「五階と六階の間にある部屋」、「ソとラの間の黒鍵の部屋」(p.95)。二度目に行こうとしたら、ふつうの5階だった*3
また、長期に亙って存続し続けるものと、そうでないものとの対立。長期に亙って存続し続けるもの、ここでは「百年前のピアノ」。この中篇を、「わたし」は「百年前のピアノ」を入手できそうになるがやはり入手できないと要約することも可能だろうが、「ピアノ」は「わたし」にせよ「槙野」にせよ「諏訪」にせよ、長期に亙っては存続しえない生と対比できるかもしれない。
それに対して、「ブラック・ジャム」は(私にとって)ちょっと難解な小説という感じがした。どう解釈していいのかわからないところもかなりある。
誰でも気づくのだろうけど、この中篇においては〈スティグマ〉が重要な役割を果たしている。「わたし」は5歳の頃に家の台所で大火傷をし、その後の処置が拙かったので、腕にケロイド状の痕が残ってしまった。「わたし」のその後の人生は或る意味で、(ゴッフマンの『スティグマ社会学*4謂うところの)スティグマのパッシングとその失敗といえなくもない。また、「わたし」のスティグマがケロイドという過剰であるとするならば、「わたし」が惹かれ、恋愛関係や性的関係に陥る男は〈欠落〉のスティグマを有している(手の指が欠けていたり、片足がなかったり)。

スティグマの社会学―烙印を押されたアイデンティティ (1980年) (せりか叢書)

スティグマの社会学―烙印を押されたアイデンティティ (1980年) (せりか叢書)

また、ここでも、長期に亙って存続し続けるものと、そうではないものの対立が提示されている。前者の例は季節外れになっても飾られ続ける雛人形、或いは意識不明になっても生き続ける「わたし」の母親の生命。そうではないものの例は、雛人形の一部を盗んだ後にあっさりと自殺してしまう、「わたし」のアルバイト先の友人の生命。

*1:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20160731/1469992600

*2:pp.34-40

*3:「わたし」は以前結婚していたとき、「六階」に住んでいた。現在は「五階」に住んでいる。帰宅する際に、6階のボタンをおしてしまったのは、過去の習慣に引き摺られてしまったからだ。この意味で、これは過去と現在の〈間〉のヴァリエーションであるといえる。

*4:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090512/1242096717 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100820/1282306027