大江と三島 - Living, Loving, Thinking, Again

やってよかった東京五輪 ―オリンピック熱1964 (新潮文庫)

作者:山口文憲編
発売日: 2020/03/28
メディア: 文庫

山口文憲編『やってよかった東京五輪　オリンピック熱1964』*1には、大江健三郎 *2と三島由紀夫 *3と杉本苑子 *4のオリンピック開会式レポートが収録されている；

大江健三郎「七万三千人の〈子供の時間〉」（pp.96-107）
三島由紀夫「東洋と西洋を結ぶ火」（pp.112-116）
杉本苑子「あすへの祈念」（pp.116-119）

大江と三島は聖火リレーの最終ランナー、坂井義則に言及している。
大江健三郎曰く、

そして聖火、たいまつをかかげた青年は、大きくどうどうたるストライドで、じつに楽しく走る。そのように健康な体をもっていることが、じつに愉快でたまならないといった風に、楽しげに、ちょうど子供漫画で、ダッ、ダッ、ダッ！　と説明がつけられるような走り方で、かれはフィールドを疾走し、火炎太鼓のあいだをぬけ、数しれない菊でかざられたグリンの階段をいっさんに駆けのぼっていゆく、かれが聖火の最終ランナーに選ばれたとき、日本在住の米人ジャーナリストは、それが原爆を思いださせて不愉快だといった。そこで、われわれは、あらためて、かれが原爆投下の日、広島で生まれた青年であることを意識したのだった。ぼくは、この春、広島で死んだひとりのハイ・ティーンの娘のことを思わずにはいられない。彼女もまた、この青年とほぼおなじ時刻、おなじ広島で生まれたのだった。彼女は、おそらくは不思議な死の予感に急がされて速すぎる結婚をし、ひとりの健康な赤んぼうを残して、原爆症で死んだ。ヒロシマの悲惨を背後にひかえて、なお健康にみちあふれた広島の青年が、いっさんに聖火台に駆けのぼる光景に、ぼくは感動する。ぼくは愉快だ。
青年は聖火台にたどりつきたいまつをなおも高くかかげ、あきらかに微笑する。いま、広大なスタディアムのふたつの核が、ロイヤル・ボックスにたたずむ人影と、そこにむかって晴れわたった空にくっきり浮かびあがる〈原爆の子〉かれだ。点火され、揺らぎながら燃えあがる聖火、大合唱。やがてぼくは、すでにたいまつをもっていない、ごくありふれた、ひとりの若者が、なんとなくしょぼりして、聖火台の右後に、とぼとぼ歩きでてくるのを見た。お祭りは終わり、ヒーローはまた、ひとりの人間に戻った。それがスポーツだ。（pp.105-106）

三島由紀夫曰く、

日本選手団の赤一色のブレザー群の入場にもまして、今日の開会式の焦点は、やはり聖火の入場と点火だったといえるであろう。
その何気ない登場もよく、坂井君は聖火を高くかかげて、完全なフォームで走った。ここには、日本の青春の簡素なさわやかさが結晶し、彼の肉体には、権力のほてい腹や、金権のはげ頭が、どんなに逆立ちしても及ばぬところの、みずみずしい若さによる日本支配の威が見られた。この数分間だけでも、全日本は青春によって代表されたのだった。そしてそれは数分間がいいところであり、三十分もつづけば、すでにその支配は汚れる。青春というのは、まったく瞬間のこういう無垢の勝利にかかっていることを、ギリシャ人は知っていたのである。
坂井君は緑の階段を昇りきり、聖火台のかたわらに立って、聖火の右手を高く掲げた。その時の彼の表情には、人間がすべての人間の上に立たなければならないときに、仕方なしに浮かべる微笑が浮かんでいるように思われた。そこは人間世界で一番高い場所で、ヒマラヤよりもっと高いのだ。
聖火台に火が移され、青空を背に、ほのおはぐらりと揺れて立ち上がった。地球を半周した旅をおわったその火の、聖火台からこぼれんばかりな勢いは、御座に就いた赤ら顔の神のようだ。坂井君はその背後に消えた。彼は役目を果たして、影の中へ、すなわち人間の生活の中へ戻った。（pp.114-115）

*1:See https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/04/05/105514

*4:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20100107/1262876654 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20170603/1496506079