想像の共同体その他


「ネットキモウヨという人種」(=ゴミウヨクという下等生物)の持つ特異なナショナリズムの正体は、日常的なコミュニティから疎外された「不安な個人」たちにくすぶる自意識の燃焼に過ぎないものである。気持ちの悪いアニメヲタクがマンガやフィギュアの閉ざされた世界に引きこもっていくのと同じように、ネットキモウヨは民族/国家という「想像の共同体」へ寄りすがることで自らの不安や孤独を癒しているだけだ。したがって、「わざわざ組織を自ら立ち上げて社会にコミットしよう」などというハードルの高い事業へと参画するネット右翼は極めて少ない。彼らの運動が創価学会朝鮮総連に死んでも勝てない理由は、ここにある。ネット右翼というのは、腐ったアニメヲタクと同種の生き物であり、正真正銘の社会のクズであり、いかにネットで愛国心を語り民族差別の卑劣な書き込みを続けようとも、現実社会には何の影響力も与えられない。(ただし、何かのきっかけで単なるアニヲタがオウム真理教のような超俗カルト組織に変貌を遂げることもあるから、「ネット右翼のオウム化」という一点にだけは注意が必要だ。)
 分かりやすく示すと、こんな感じになるだろうか?
一般人>>>(越えられない壁)>>>創価学会朝鮮総連統一協会キリストの幕屋>>>(越えられない壁)>>>ゴミウヨク=オウム=アニヲタ
http://antigomi.exblog.jp/6012098/
ここで言われていることは半分は正しい。「日常的なコミュニティから疎外された「不安な個人」たち」が「民族/国家という「想像の共同体」へ寄りすがることで自らの不安や孤独を癒している」云々。ところで、「想像の共同体」というベネディクト・アンダーソンが広めた言葉だが、それは「民族/国家」に限られるわけではない。私たちが生きる上で必要不可欠な「想像の共同体」としては、言語やマネーを挙げることができるだろう。また、階級やジェンダーという「想像の共同体」もある。社会運動をするためには、何らかの「想像の共同体」を構築したり、コミットする必要がある。マルクス主義者は階級という「想像の共同体」にコミットするだろうし、フェミニストジェンダーという「想像の共同体」にコミットするだろう。ここからは2つの問題が生じる。先ず何故熱湯浴たちは階級その他の「想像の共同体」にコミットせずに「民族/国家」にコミットするのか。「想像の共同体」などいくらでもあるのだ。また、この言い方は左翼その他を批判することにも利用できる。「ネットキモウヨは民族/国家という「想像の共同体」へ寄りすがることで自らの不安や孤独を癒しているだけだ」という文言の「民族/国家」に階級その他の言葉を代入したらどうなるか。たしかに左翼にせよ右翼にせよ、社会運動や政治運動が「自意識の燃焼」である場合もしばしばあろう。ただ、それが批判されるべきなのは惹き起こされた結果においてであろう。だから、「自意識の燃焼」云々はそれ自体では批判にはならないと思う。
それから、「気持ちの悪いアニメヲタクがマンガやフィギュアの閉ざされた世界に引きこもっていくのと同じように、ネットキモウヨは民族/国家という「想像の共同体」へ寄りすがることで自らの不安や孤独を癒しているだけだ」という。また、「ネット右翼というのは、腐ったアニメヲタクと同種の生き物であり、正真正銘の社会のクズであり」云々。「アニメヲタク」というのは猫耳等々の属性に対してポジティヴに萌える。それに対して、熱湯浴はポジティヴに萌える対象を持たない。〈日の丸〉で抜けたり、「君が代」を聴きながら射精する熱湯浴は聞いたことがない*1。熱湯浴が「自意識」を「燃焼」させるには、常に〈ブサヨ〉、〈在日〉、〈特亜〉等々の(大方は自らが捏造した)他者を貶めることを必要とする。「アニメヲタク」の欲望は一応ポジティヴであり、熱湯浴の欲望はネガティヴである。両者の欲望のヴェクトルは正反対であり、従って「アニメヲタク」と熱湯浴を等値のものかとするかのような仕方は違うのではないかと思う。
また、「ゴミウヨクという下等生物」、「腐ったアニメヲタクと同種の生き物」という言い方も問題だ。「生きる価値のないゴキブリ」という表現もある。社会学を生物学に還元し(非人間化)、さらにそれを道徳化するような語りがファシスト的な語りに頻出するということは論を俟たないだろう。また、熱湯浴の語りでも*2。つまり、ファシストや熱湯浴に反対しながら、期せずして、敵の身振りを反復してしまっているということになる。

*1:三島由紀夫が突きつけた問題のひとつはまさにその問題だった。

*2:実際に、マイノリティの排除はこのようなロジック(レトリック)において行われている。http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070807/1186451167を参照のこと。