自殺と日本製品の品質

 王〓*1「日本自殺文化輿産品質量」『東方早報』2007年6月28日


筆者は復旦大学ポスドク(経済学専攻)。よくわからないが、面白かったので、メモしておく。
先ず、日本の警察当局の発表によれば、日本の自殺者数が9年連続で3万人を超えたことが言及され、「自殺文化是日本文化中的一個特異現象」であるとして、川端康成三島由紀夫の自殺、さらには最近の松岡利勝の自殺も言及される。
「在日本、神道教和佛教並不禁止自殺、武士道精神甚至推崇自殺、自殺被視為対失敗負責輿表達愧疚的一種謝罪方式、人死了就昇華成神、自殺是体面而値得尊敬的」。それに対して、中国では古今自殺は後を絶たないのに拘わらず、「総体上中国人対自殺的態度非常明確:好死不如歹活、何況自殺属於横死」。
ここで話題が変わって、「中国伝統哲学」は「一種模糊哲学」であるという――「道可道非常道、名可名非常名」(老子『道徳経』)、「夫道、有情有信、無為無形;可傳而不可受、可得不可見」(『荘子・大宗師』)。「道」は「具体的」であるが「規範的」ではなく、「只可意会而不可言傳、無法精確表述」である。佛教も中国化し「禅宗」になるに及んで、「模糊哲学」に接近してしまった。さらに、話は「美学」へ――「模糊哲学導致模糊美学。伝統上的中国画推崇“気韻生動”、以“通意”為主、不考慮透視比例等“肖形”類問題、斉白石的“妙在似輿不似之間”遂成論画名言」。これと西洋美学とは完全に対立する。王さんによれば、この「模糊哲学」は「中国人生活的毎一個細節」に「浸透」し、「中国人的価値観」に「“差不多”主義」*2が形成されたという。それが現在、「中国製造」(Made in China)の「品質は差不多でも儲かればOK」という精神に繋がっているという。
話はまた日本に戻って、たしかに日本人は歴史への反省を知らない。しかし、日本の経済的地位が高いこと、日本製品の品質が高いことは認めなければならないという。それに対して、Made in Chinaは「廉価劣質的代表」である。中国がWTOに入って5年、対外貿易量は大幅に増加したが、中国は国際分業の中でも「低端」にあり、「廉価的労動密集型産品」に資源を浪費しているのが現状であり、GDP世界第4位というのは「虚名」であると断じられる。


対於相信“寧在世上埃、不在土里埋”的中国人而言、国民自殺率肯定比日本低。然而、“質量興国”的標語早已貼在墻上、“中国製造”的質量問題却並没有出現大規模改善、反而増加了許多似乎是一脈相通的問題:水汚染問題、食品安全問題……這些問題的後面、有一種模糊哲学在作崇:差不多就行、不妨碍現在賺銭就行。如果我men継続実践這種哲学――這是不是一種自殺文化?
筆者は中国文明のコアを儒家ではなく道家であるとしているようだ。但し、品質の問題を文化論的に語るのはどうかなとも思う。「模糊哲学」「模糊美学」ということなら、日本はさらに徹底しているともいえる。漢字をさらに「模糊」にしたのが平仮名だからだ。また、日本では「模糊」は藤原定家以来、幽玄という仕方で(中国以上に)洗練されてきた。さらに、今や『三丁目の夕日』などでみんながノスタルジーの対象にしている昭和30年代において、Made in Japanというのは国際市場では粗悪品の代名詞だったわけだ。もし〈文化論〉で行くなら、短期間に日本文化の根柢的変容があったことを仮定しなければ、Made in Japanの品質向上、延いては高度経済成長は説明できないということになる。
しかし、中国の「模糊哲学」と言われてぴんと来るということもある。どのテクストかは遺憾ながら忘れてしまったけれど、中野美代子先生が中国人は何故阿片にはまったのかということを問うていたことがあった。中野先生も中国美術、例えば山水に言及していたと思う。それを読んだとき、日本でドラッグにはまるという場合、阿片とは正反対の薬理作用を有するシャブだよな、と思った。唐突ではあるが、ドラッグの国際価格についての記事がhttp://eunheui.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_a0d3.htmlにあり。


なお、日本の自殺文化についてはhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060901/1157134383もご笑覧のこと。

*1:jue2. 王+玉。GB7169.

*2:まあまあ主義若しくはいい加減主義と訳すべきか。