「酸素」の有無

マンネリズムのすすめ (平凡社新書 (010))

マンネリズムのすすめ (平凡社新書 (010))

丘沢静也「どのようにして私はマンネリズムに目覚めたのか」(in 『マンネリズムのすすめ』*1、pp.17-23)


曰く、


がんばらないことが、教養なのだ。限界ぎりぎりまで歯をくいしばるのではなく、自分のからだに耳をすましながら、身のほどをわきまえて、からだを動かす。すると、自分は世界のなかで呼吸をしているのだと感じることができる。世界に対立するわけでもなく、世界のなかに溶けてしまうわけでもない。そういう感覚を毎日のように味わっていると、心身ともにリラックスしてくる。(pp.19-20)
これに註して、

エアロビクス・エクササイズで味わえる、この中途半端な「私」の感覚は、西洋と東洋を橋渡しするものである。西洋では、人間が自然をねじまげ、「私」を世界に押しつけるが、東洋では、「私」を自然のなかに消してしまうことを理想とするからだ。
エアロビクスは、一九六八年に提唱され、七〇年代に盛んになった。「成長の限界」の確認とか、エコロジー感覚の芽生えなどと時期的に重なり、大げさにいえば、エアロビクス(有酸素運動aerobics)は、モダンを修正する思想とみなすこともできるだろう。たとえば、なぜ三島由紀夫(一九二五〜七〇)は、日の丸の旗に殉じるという、あの悲喜劇を演じてしまったのか。アネロビクス(無酸素運動anaerobics)はやっていたが、エアロビクスを知らなかったからだ。(p.23)
See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101126/1290795234