村上一郎について幾つか

https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/03/03/004852に対して、


id:redkitty


村上一郎って忘れられていると聞いて、少し驚いています。
私の友人にも自分は深く影響を受けた、村上一郎の本を読めって言ってくれた人がいるし、深夜放送を聞いていた頃親しんだ北村年子さん*1が、自分が編集者になろうと思ったのは、村上一郎の本を読んで、と語っているのを聞いたことがあります。彼女、たしか上京してから会いにいったんじゃなかったかな。ここはあやふやですが。ほかにもいろいろ。

2019-03-03 10:53

同姓同名、西村眞悟*2のお友達である右翼テロリストの村上一郎もいるのでした。
話を元に戻すと、記憶している人は記憶しているでしょう。「はてなキーワード」にもあるわけですから。ところで、永田和宏氏の『現代秀歌』*3には村上一郎の歌は収録されていません。まあ、永田氏も「はじめに」で、「この歌人が入っていないのはおかしい、この歌はこの歌人の代表作ではないなどというクレームがつくのは必定である」と述べているわけですけど(p.v)。
現代秀歌 (岩波新書)

現代秀歌 (岩波新書)

私の場合、村上一郎というと、三島由紀夫もそうですけど、それよりも先ず雑誌『試行』の同志だった吉本隆明を想起します。吉本と糸井重里との対談から;

吉本 あのね、ぼくが知ってる人で、
自殺した方がいるんです。


糸井 村上一郎さんですね。


吉本 ぼくは、村上さんが亡くなってから、
何週か経ったとき、拝みに行きました。
そのとき、奥さんが言ってくれたんですよ。
村上さんが、急に、
家でも、自分に対しても、
言葉が少なくなって、憂鬱そうになったのは
テレビに出てからなんです、と。
あの人は、ぼくなんかより、
はるかに純粋な人で、
純粋なことが好きな人ですから。
あれは、三島由起夫さん(sic.)が亡くなった
前後の頃ですよ。
村上さんが、NHKに呼ばれて
おしゃべりするということが
あったらしいんです。
そのときに、どういう不調和があったのか、
わかりません。だけど、奥さんが言うには、
そのあとからしゃべりも少なくなって、
自分に対しても、
なんとなく何かを考え込んでるとか、
考えこまされてるとかいう感じに
なったそうです。
奥さんは、それが、
村上さんが自殺を考えた
きっかけじゃないかと思うと
おっしゃっていました。
そばで一緒に生活してた
奥さんの見方です。


糸井 はい。


吉本 それで、奥さんは、
よっぽど、こうしてくれ、ああしてくれと、
自分に不慣れなことを言われたんじゃないか、
そのことが原因じゃないかと思ってる、と
おっしゃいました。


糸井 結局、「受け手のため」という理由で
要求されることに、
踊らされることになって。


吉本 そうなんでしょうね。
そこを、あの人は純真な人ですから‥‥


糸井 そのまま受け入れて、
やったんですね。


吉本 そうなんでしょうね。
それで、それからなんか、
沈んでいっちゃって、そのあと自殺した。
「そのあと」と言っても、
ぼくから見れば、もう相当な期間ですけどね。
村上さんは、テレビに出たときに、
なにか感じたり、
これは自分には不都合だとか、
そういう実感が出てくるようなことが
あったんだと思います。
(「テレビと落とし穴と未来と」https://www.1101.com/tvtrap/2008-12-26.html

また、村上一郎一橋大学高島善哉に師事した人で、桶谷秀昭村上一郎を一橋の人脈の中に位置づけています。桶谷は『無名鬼』という同人誌を村上とともに、村上の自決に至るまで、発行していた;


「一橋と昭和戦前・戦後の文学」http://jfn.josuikai.net/nendokai/dec-club/sinronbun/2005_Mokuji/Kyoumonsousyo/dai34gou/1hasi_to_SenzenSengoBungaku.htm


このテクストは、一橋の作家ということで、二葉亭四迷伊藤整から、石原慎太郎城山三郎、さらには田中康夫まで言及されていて、とても興味深いです。
また、西王燦「短歌におけるシェストフ的不安を考える―不安と絶望―」*4もけっこう揺さぶられたテクスト。曰く、


村上一郎は、戦争と「党派」と安保という、まさにその背後に虚無の立ち現れる時代を生き、それらがすべて失われた、いかにも平穏な時代に死んだ。そして、私たちは、それらがあらかじめ失われてしまった時代を生きている。
 かなり個人的な書き方になるが、『撃攘』の出版された七一年は、私にとって理想主義的な幻影がすっかり消え去った年だった。それ以後の私は、単なる「おたく」として生きて来たにすぎない。「おたく」というのは「短歌フリーク」としてのそればかりではなく、すべてにおいて。私たちは七一年まで理想主義的な運動のなかで、「おたくは、、、?」と議論を持ちかけた。そのように語りかける「おたく」がフリークとしての呼び名になったとき、私たちもまた現実との(村上一郎が行ったような)肉体的な接触をさけて、今ある言葉の表す「おたく」になった。
 
 村上一郎の死後、私たちを統べるものとして何があっただろう。ニュー・アカと呼ばれた論調はナンパの小道具にすぎなかったし、私たちの思想そのものを揺るがせると宣伝されたインターネットは、巨大な伝言ダイヤルを家庭に持ち込んだものに過ぎない。私たちの世代の多くは、(村上一郎のようにではなく)いつも死にたい死にたいと呟きながら、できれば心中がいいな、などとイヤらしいことを妄想する。
 
 「おたく」が極端に変形し、エイリアンのようなものになったとき「オウム真理教」が生れた。この「犯罪者集団」についての、私たちの心理的決着はまだ着いていない。誤解を恐れずに書けば、そこには、愛憎なかばするものがある。
 J・G・バラードは「核の時代のほんとうの恐怖は、核そのものではなく、それによって人々にデカダンスが生れたことだ」と述べた。つまり、私たちのデカダンスの正体は、かならず訪れるであろう「ハルマゲドン」を待ち侘びる心情のなかにある。私たちの多くは「オウム真理教」の教祖が声高に述べたハルマゲドンの到来を、心の深い部分では、待ち望んでいるのだ。居心地の悪い「平和」に耐えかねて。
後半で論じられているのは、「オウム真理教」事件を題材にした短歌を詠んだ加藤治郎。