40年、そして自律神経など

所謂「憂国忌」については一昨年言及したことがあるのだが*1
木曜日は三島由紀夫が市ヶ谷で切腹してからちょうど40年目。これを日本社会がどのように受けとめているのかはわからない。ただ、興味深い三島論を見つける。長文を厭わず、ざくっと引用してしまおう;


さて、三島は太宰治が嫌いであることは有名とされる。

「第一私はこの人の顔がきらひだ。第二にこの人の田舎者のハイカラ趣味がきらひだ。第三にこの人が、自分に適しない役を演じたのがきらひだ。女と心中したりする小説家は、もう少し厳粛な風貌をしてゐなければならない」(『小説家の休暇』新潮文庫)と書いてある。しかし、不思議なことに、三島と太宰は共通点があるように見える。自意識過剰で自己パフォーマンスがうまい、そして自己愛が強いということだ。「役者になりたい」(『晩年』新潮文庫)と太宰は思い、小説や心中に言葉巧みで自分の分身を「役者になり」書いていった。

三島も実際に映画「からっ風野郎」に俳優として主役で出演した。さらにボディビルなどで鍛え上げ、肉体美を追求した。これも三島が演じた“役”ではないか。彼の同性愛傾向も、それに醸し出したものといえよう。

「過剰な自意識と歪んだ自己顕示欲とが、生まれながらにして彼を支配していたのだ。彼の人生は彼が作った舞台であり、彼自身は、自分が作ったシナリオに忠実に生きるしかない役者だった」(小池真理子「狂おしい精神」/文豪ナビ 三島由紀夫 新潮文庫)。

二人は「役者になり」きり、自ら人生の幕を閉じた。決定的な違いは、いい意味の緩さが太宰にあり、三島にはなかったことだろう。また精神の強さも二人とも持ち合わせていた。太宰は病弱そうで強かったところがある。三島は肉体美やボディビルなどスポーツで男の強さを表明したが、繊細な精神をも潜んでいた。そういう意味で、僕は太宰に好感を持つ。

三島も美しさのこだわりや追求には魅入られていくが、完璧すぎて、隙がない。かねてから親交が深かった川端康成もまたしかり。あまりの美の想いが強いため、現実世界に耐えきれず、三島は自決という形で『金閣寺』の青年僧のように「幻想と心中」していった(川端も後を追うようにガス自殺を図った)。20世紀、昭和という時代、三島は密度の濃い人生を短いながら作家として役者として、命を燃やした。
http://d.hatena.ne.jp/satosuke-428125/20101125/1290633928

さて、人間(というか生物)には自律神経系というのがある。これは呼吸、(発汗を含む体温調整)、消化、新陳代謝といった私たちの生物としての基本的活動を制御している。その働きの特徴は不随意、つまり意志に支配されないということである。言い換えれば、私たちは自律神経系のおかげで、呼吸や消化といったことを意識せず、より高次な活動に意識を集中することができるといえるだろう。たしか、伊丹十三が自殺した直後だったと思うのだが、『話の特集』の編集長だった矢崎泰久がたしか寺山修司の言説を援用して、三島由紀夫は私たちの身体の基本が自律神経によって支配されていることに我慢ができずそれをできるだけ意志によってコントロールしようとしたというようなことを何処かで書いていた。矢崎が言いたかったのは伊丹十三も同様な性格を持っていたということ。上で指摘されている「ボディビル」は勿論のこと、「自意識過剰」とか「自己パフォーマンスがうまい」ということも、自己の他者への現れ(appearance)を徹底して意志的にコントロールしようとするということで、三島由紀夫の反―自律神経的な思い込みを裏付けているといえる。これについては、彼が少年時代までひ弱で肉体的にも貧弱だったことに対してルサンティマンを持っていたことを勘案しなければならないだろう。勿論、音楽、ダンス、演劇、或いはスポーツを含むパフォーミング・アートというのはそもそも私たちの自律神経が刻む(私たちの意志からは独立した)リズムを意識化・操作すること、時にはそれに抗ったり・それを捻じ曲げたりすることによって成り立っているのだが。矢崎泰久の話を読んだとき思ったのは、三島由紀夫は右翼的な政治にはまったために1970年の時点で切腹した、しかし仮令右翼的な政治にはまることがなくても結局彼は自死を選んでいたのではないかということだ。つまり、人間は老いる。老いるというのはどういうことかといえば、身体への意識的なコントロールが後退し、その分だけ自律神経の支配力が高まるということだ。三島はそうした老いに耐えられただろうか。そういうことをつらつらと考えたことがあったので、特に上に引用した部分は興味深く読めた。ただ、三島の「同性愛」をそれとの関連で位置づけていることに関しては疑問符を付けておく。確証はできないのだが、三島にとって「同性愛」は逆に、そうしたマッチョ的な意識的自己コントロール指向からの逃避を意味していたのかも知れないのだ。それから、ここでは直接引用しなかったが、『金閣寺』が傑作だというのはその通りだと思う。これは或る種の〈ダブル・バインド〉の物語だよね。〈金閣寺〉は主人公の欲望を喚起するとともにその欲望を禁止し・萎えさせる。その罠に嵌ってしまった主人公が罠を無効にするために採った行動が放火だった。高林陽一監督による映画も(低予算のATG映画の限界はあるものの)そうした〈金閣寺〉の両義性をヴィジュアル的によく表現していたので是非お薦めと思ったが、DVD化されていないようだ(VHSも?)。なお、市川雷蔵が主演した市川崑監督の『炎上』は観ていない。
金閣寺 (新潮文庫)

金閣寺 (新潮文庫)

なお、自律神経系に関しては、小泉義之『病いの哲学』(p.172ff.)も参照のこと*2
病いの哲学 (ちくま新書)

病いの哲学 (ちくま新書)