新しかった「ノスタルジー」

治療塔 (講談社文庫)

治療塔 (講談社文庫)

大江健三郎*1 *2 『治療塔』から。語り手である「私」(=「リッチャン」)にかつて「繁伯父」が語った言葉;


――リッチャンはまだ生まれていなかったから、古き善き時代のケープ・カナベラル基地からNASAのスペース・シャトルが打ち上げられていた、宇宙航海の揺籃期のことは知らないね? しかしテレヴィのノスタルジー番組で、離陸したロケットがほんの数秒後に白い煙の輻を四方に放って爆発した、あの涙ぐましいような美しさのヴィデオは見たことがあるでしょう? 日本人には有人ロケットの打ち上げができなかった頃でね、あのロケットにはオニヅカ宇宙飛行士という日系二世が乗り組んでいたこともあって、とくに関心が集中していたんだよ、こちらでも。現場中継のテレヴィは西側世界のどこでも放映されたはずだよ。あれを見ているとね、スペース・シャトルの関係者は緊迫した雰囲気だったけれども、見送りに集まった見物人たちの特設桟敷は花やかなピクニックのようでね。人類的な規模の大事件が、ああした行楽気分のなかで起こるものかと、後になってつくづく気が滅入ったけれどもね。
ロケットが発射される。お祭り気分の連中が喚声をあげる。闘牛かなにかの熱狂ぶりでね。Go、 Go! とか叫んでさ。在郷軍人団風の連中は手慣れたもので、のんびり星条旗の紙旗を振ったりしていた……。
そのほんの数秒後、ドカーンと爆発して、カメラがたまたまとらえていた宇宙飛行士の家族が、――Oh、No! と叫ぶ。あの瞬間、テレヴィ中継を見ていた、西側世界全域の人びとの心にね、悲劇的な感情がサーッと走ったと思うよ。そして、その感情は、奥深いところで正しかったんだね。かれらの胸の底に届いていたのは、人的被害を最小にとどめての宇宙意志からの警告だったのさ。私はね、あれを機会に、宇宙にロケットを打ち上げる試みは、すべて断念すべきだったと思うよ。当時、実際にそう考えて研究所の仲間とも話し合ったものだよ。……ところが人類はそれとは逆の選択をしたんだなあ。次つぎにロケットを打ち上げる。日本はもとよりキューバのような小国まで参加する。そのうちスターシップの大船団を作り出すというのが、全地球的なコンセンサスになってしまった。そしてついには百万人もの規模のものを、「新しい地球」に向けて打ち上げてしまった。ともかく二十世紀いっぱいは古い地球で保たれた人類の西城・最良のものをかれらにたくして、文明の存続を企てる、という建前で、それを世界じゅうの人間が、大変な犠牲覚悟で指示した、ということなんがな。そこまで昇りつめた人類規模の熱狂というものも、よくよく実質を見きわめてみれば、前世紀末のケープ・カナベラルの沖合でロケットが真白な煙を吐いて爆発した際の、悲劇的な感情にくらべてどれほど真実だったろうかねえ?
(後略)(pp.25-27)
『治療塔』が岩波書店から出ていた雑誌『へるめす』に連載されたのは1989年から90年にかけて、単行本として出版されたのは1990年。当時はまだスペース・シャトル爆発事故の記憶は生々しかったわけだ(チェルノブイリの記憶とともに)。21世紀になって既に20年近くが過ぎようとしている現在、あの「離陸したロケットがほんの数秒後に白い煙の輻を四方に放って爆発した、あの涙ぐましいような美しさ」の光景はどのように語られているのだろうか。

*1:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060127/1138377731 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060305/1141541736 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060913/1158115201 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060913/1158115845 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061007/1160211636 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070219/1171860573 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070524/1180035472 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070805/1186334685 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071017/1192639890 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080228/1204212786 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080612/1213243483 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080724/1216900400 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081025/1224880677 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081101/1225513928 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081212/1229106098 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090227/1235701965 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090507/1241664621 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090508/1241746028 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090510/1241928928 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091112/1257995144 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091214/1260769343 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100413/1271127313 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100528/1275052441 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100810/1281438143 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101101/1288543788 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101220/1292861075 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101220/1292861075 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110327/1301200948 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110427/1303918915 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110707/1310010518 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110813/1313253565 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110829/1314543718

*2:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120401/1333220131 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120403/1333385004 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120425/1335361390 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120929/1348878965 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20131212/1386781451 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20140725/1406262846 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20150626/1435335715 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20151129/1448815193 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20151211/1449803224 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20160302/1456851644 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20160314/1457888629 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20160321/1458578210 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20160325/1458929101 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20160416/1460821073 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20161227/1482810098 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20170208/1486559995 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20180117/1516161397 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20180601/1527821829