「妖精」(吉本ばなな)

ふなふな船橋 (朝日文庫)

ふなふな船橋 (朝日文庫)

吉本ばなな*1『ふなふな船橋』から、主人公の「私」(=「立石花」)の語り。


なんで人間には太古の昔から妖精が必要だったのかを、大人になった私にはわかる気がする。大人たちがどんなにばかにして笑っても、子どもにはどうにもならなくて決して言葉では説明できない孤独な夜があり、いつでもいっしょにいてくれて自分を励ましてくれるなにかがどうしても必要なのだ。
人によるし、年代にもよるだろう。Qちゃんだって、ドラえもんだって、しんちゃんだって、キティちゃんだって、アンパンマンだって、ウルトラマンだって、仮面ライダーだって、ルフィだっていい、いつだってたくさんいた、それぞれにフィットしてそれぞれのために固有の忘れがたい思い出を作ってくれた、そういう存在が。
あなたたちが超人的にがんばっているから、私もこのつらい浮き世をがんばれるんだよという人間でない存在が。
それはもはやパンクやロックのように、この世の枠から、人間界のしがらみから自由に、永遠に子どもの勢いを表現している想像上の生きものたち、常に子どもの心に寄り添って大人のつごうを一切かいしない存在。
大人の中にも小さな子どもが必ず住んでいるからこの世には彼らが必要なのだ。ほんとうになにもかも投げ出してなにかに甘えたくなったとき、そういう存在はなんにもしてくれやしないけれど、ただそこにいてにっこり笑ってくれる。それで充分だ。
人はだれかになにかを全部してほしいわけではない。甘えきって、任せたいだけじゃない。ただ自分でゆっくりと立ち直っていくあいだ、その隣に確かに善良なものを、希望を、愛情を感じられる存在に、そっといっしょにいてほしいだけ。
だれにでも、どうしてもひとりでいたいときがある。同族の全てに疲れ果てて、小さい子どもみたいに膝を抱えるときがある。そんなときふっと下を見ると、妖精はきっとにっこり笑って見上げてくれるだろう。だからみんななんとかつらい夜をやりすごしてきたのだ。
人の心の中に妖精はほんとうに生きている。
私が小さいときから本を好きなのも、本の中の人たちはどんなときでもいっしょにいてくれるからだった。妖精と同じように、実際には見えないけれど確かに生きている、そんな魔法の友だちたちを持たなかったら、私はとてもこの人生を歩んでいけない。
存在だけでいいのだ、人を百倍も千倍も強くしてくれるなら。
そして、その存在は人の潜在的な力を思わぬ形で引き出してくれる。
その力の元に生まれる物語はすでに夢ではない。確かにそれぞれの現実の物語になっていくのだ。(pp.21-23)