砂岩は脆い

https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/03/03/004852に対して、


id:nessko

サガン
いわれてみるとそうですね。自分が中学生くらいのころは文庫本コーナーにずらっと並んでいたのに、いつのまにか消えています。
日本で女性作家がいっぱい出てきたからかな、Jポップが隆盛して洋楽が下火になったような感じなんでしょうかね?
三島由紀夫のボディビルですが、中村うさぎが美容整形にはまって写真つきで美容整形について書いているのを見た時、三島由紀夫のボディビルを連想しました。あれを見て、中村うさぎ三島由紀夫がそうであったように、物書きでいる必然性があるんだなと妙に納得した次第です。

サガンが忘却されたのは日本だけのことではないようですよ。スキャンダル故のバッシングに遭い、スランプのため書けなくなり、徐々に表面から消えていった。伝記映画『サガン――悲しみよ、こんちには――』を観た限りだと、サガンは、男の文士には大目に見られている、或いは〈肥し〉として推奨されないこともない、〈文士としてのご乱行〉、酒乱とか愛人とかドラッグとかを、女だてらに実践してしまったが故に仏蘭西社会のバッシングを受けてしまったという気がします。三島由紀夫中村うさぎという組み合わせは面白いですね。
三島由紀夫とボディビルについては、以前、

さて、人間(というか生物)には自律神経系というのがある。これは呼吸、(発汗を含む体温調整)、消化、新陳代謝といった私たちの生物としての基本的活動を制御している。その働きの特徴は不随意、つまり意志に支配されないということである。言い換えれば、私たちは自律神経系のおかげで、呼吸や消化といったことを意識せず、より高次な活動に意識を集中することができるといえるだろう。たしか、伊丹十三が自殺した直後だったと思うのだが、『話の特集』の編集長だった矢崎泰久がたしか寺山修司の言説を援用して、三島由紀夫は私たちの身体の基本が自律神経によって支配されていることに我慢ができずそれをできるだけ意志によってコントロールしようとしたというようなことを何処かで書いていた。矢崎が言いたかったのは伊丹十三も同様な性格を持っていたということ。上で指摘されている「ボディビル」は勿論のこと、「自意識過剰」とか「自己パフォーマンスがうまい」ということも、自己の他者への現れ(appearance)を徹底して意志的にコントロールしようとするということで、三島由紀夫の反―自律神経的な思い込みを裏付けているといえる。これについては、彼が少年時代までひ弱で肉体的にも貧弱だったことに対してルサンティマンを持っていたことを勘案しなければならないだろう。勿論、音楽、ダンス、演劇、或いはスポーツを含むパフォーミング・アートというのはそもそも私たちの自律神経が刻む(私たちの意志からは独立した)リズムを意識化・操作すること、時にはそれに抗ったり・それを捻じ曲げたりすることによって成り立っているのだが。矢崎泰久の話を読んだとき思ったのは、三島由紀夫は右翼的な政治にはまったために1970年の時点で切腹した、しかし仮令右翼的な政治にはまることがなくても結局彼は自死を選んでいたのではないかということだ。つまり、人間は老いる。老いるというのはどういうことかといえば、身体への意識的なコントロールが後退し、その分だけ自律神経の支配力が高まるということだ。三島はそうした老いに耐えられただろうか。(後略)
と書いたことがあります*1
また、三島由紀夫の『太陽と鉄』を評した石川淳の文章(『文林通言』)*2を再度引用しておきます;

「肉体」にかけた三島君の経験はさまざまと見えるが、わたしとして、たつた一つの例外をのぞけば、とくにおどろいてみせる義理がありさうなものはない。といふのは、竹刀をもつてする道場の稽古も、實戰ではない練兵場の訓練も、ホントの経験ではなくて、まあ擬似経験とでもいふべきものだからである。そこには實物としての敵はゐない。また實地に死を踏まへるといふことはない。また観念のほかにも悲劇はありえない。それだから、一應のハナシを聞けば、カラダをうごかすことの不得手なわたしの想像力をもつてしても、およその見當がつく。わからない部分があつても、わたしにとつてどうといふことはない。ところで、たつた一つの例外といふのは、三島君がミコシをかついだことである。これこそ、訓練でも稽古でもなくて、まさにぶつつけ本番の、「肉体」の現場にちがひない。(p.48)

(前略)三島君は揺れる太い棒の下にあへぎながら、ふり仰いで、いや、ふり仰ぐほかの姿勢はなく、必至に「青空」を見たといふ。想像を絶して、その現場に於て、直接に見るほかに見やうのないこの「青空」といふものに、わたしは感動した。「青空」といふ表現はことばではあるが、それがミコシかつぎといふ「肉体」経験から發せられたとき、ことばの「腐蝕作用」に依つて、その作用の逆手に依つて、はじめて實物として取りこむことをえた自然の顔のやうにおもふ。あるひは、このことばは「肉体」がこれを食つてその意味を吐き出したものである。それはまた、ミコシの重量の下にほとんど死の危険に於て「肉体」を押しこむといふ儀式に依つて、解放された精神が發見したものにひとしい。もしそこにミコシの神の信仰があれば、解放はすなはち救ひになるだらう。けだし祭の本義である。祭はともかくとして、この「青空」は三島君の「肉体」の戰利品であつた。(後略)(pp.48-49)
文林通言 (中公文庫 A 72-3)

文林通言 (中公文庫 A 72-3)