合田正人『吉本隆明と柄谷行人』*1から。
「「原生的疎外」*2はまさに原生動物から人間に至る生命体すべてが共有」し、「「異和」とも呼ばれるように」、「ずれであり隔たりであり、それゆえ関係であった」(p.101)。
(前略)セーレン・キルケゴール(一八一三~一八五五)の言うように、また、「冪乗」という言葉で吉本が言い表そうとしているように、「人間」にとっての「関係」は、「関係と関係する関係」「関係の関係」であって、マルクス/エンゲルスも「動物は何に対しても『関係する』ことがなく、またそもそもそうするとをしない。動物にとっては他のものに対する関係は関係としては実存しない」(『ドイツ・イデオロギー』五八ページ)と表現している。(pp.101-102)
しかし、重要なのは、「原生的疎外」が吉本によってさらに「純粋疎外」へと変形されていくということだ。この変形を吉本は「ベクトル変容」と呼んでいる。極端に単純化するなら、長方形の縦もしくは横の二辺を斜めに傾けて変形させる場合を考えればいいだろう。それにしても「純粋疎外」とは何だろうか。『心的現象論序説』(一九七一年)には、「ベクトル(原生的疎外)-ベクトル(純粋疎外)=関係意識」という定式が記されている(一二八ページ)。(略)「原生的疎外」それ自体が「関係」であり、「関係への関係」として冪乗されることで「関係」は対自化され「関係の意識」が生まれるのだが、この定式によると、「純粋疎外」は「関係ならざるもの」または「関係意識を欠いたもの」となる。何が起きたのだろうか。
(略)「関係の関係」として冪乗されていく動きは、ある意味では果てのない内在化であり対象からの遠ざかりであるのだが、終着点がないからこそ逆に、志向的意識の出発点となるようなものが仮構されてしまうのだ。事実、吉本は「純粋疎外」について、「それ自体として存在するかのような領域である」(同九八ページ)と記している。(略)私たちが外から窺い知れない各人の「心」とみなしているものである。そんなものがあるのかどうか、どこにあるのか、どのようにあるのか分からないにもかかわらず、あると思われているもの。(pp.102-103)
(略)なぜ吉本は「純粋疎外」という、存在するとさえいえないものを想定したのだろうか。この点で興味を惹くのは、吉本が、「ハイデッガーの現存在の概念は、わたしたちの純粋疎外の概念と類似している」(『心的現象論序説』一〇六ページ)と言っていることだ。これはきっとハイデガーによる『存在と時間』(一九二七年)*3の、「現存在(Dasein)というこの存在者はおのれの存在において存在へと関わりにいくことが問題なのだが、そうした存在はそのつど私のものである」(『存在と時間』第九節)といった箇所を踏まえた発言であろう。ハイデガーの場合、「現存在」はたいていは匿名のひとへと溶解しつつも、みずからの「死」を思うこと――メメント・モリ――でその「各自性」を取り戻す。吉本も、みずからが生み出した「擬制」的諸制度のシステムに呑み込まれることなく、それに抵抗するもの――これまた「擬制」であることに変わりはないのだが――、いや、かかる抵抗たりうつものを「純粋疎外」とみなしているように思える。(pp.103-104)
「原生的疎外」と「純粋疎外」――実は、「疎外」という語こそ用いられていないけれども、『心的現象論序説』において吉本は、「心的な原関係と原了解」という言葉を用いている(二一七ページ)。(略)いわゆる「既視感」を説明するために「胎児」「幼児」、さらには「原胎児」などの用語が使用されている箇所で、そこから推察するに、「原生的疎外」から「純粋疎外」への変容をいわば発生的に辿ろうとするときの起点を指す言葉であろう。言い換えるなら「自己」ないし「自己意識」が発生したその閾なのである。(略)吉本がここでハイデガーのいう「現存在」のいわば訳語として〈そこに存在すること〉と言っている。私がきわめて重要な問題というのは、「純粋疎外」〈今‐ここ〉が時空的関係性の不在として規定され、そこから自己との関係へ、次いで、自己と他者(他の事象)との関係へという過程が、あたかも当然のように前提とされているからだ。(略)これは関係性の優位を説く思想が必ずや突き当たる難題である。なぜなら、関係性を最初におく主張と、関係が何かと何かの関係である以上、この何かが最初にあるとする主張は、「鶏が先か卵が先か」という場合の鶏と卵と同様の関係にあるからだ。(後略)(pp.105-106)
人間の個体にとって、〈そこに存在すること〉自体は、どんな関係の空間性も了解の時間性ももたない(...)*4。/(...)*5人間が〈そこに存在すること〉からはじまり〈じぶんの心的な領域のじぶんの身体にたいする心的関係と了解〉をへて〈じぶんと他者(他の事象)とのあいだの関係と了解〉にいたる過程の、質的な差異に対応するとみなされる。
(『心的現象論序説』二一七~二一八ページ)
*1:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/07/13/113046 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/07/17/122213 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/07/28/111142 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/08/07/203446 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/08/14/150548 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/08/21/131507 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/09/05/192927 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/09/25/135336 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/10/15/113833 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2025/01/18/204926
*2:See https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/09/25/135336
*3:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060108/1136730298 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070218/1171809771 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091116/1258370011 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091130/1259594080 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091212/1260644088 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091223/1261595612 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100110/1263146695 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110111/1294728582 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110120/1295514427 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110731/1312133286 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20130523/1369282829 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20141107/1415288740 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20170906/1504668432 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20170921/1505965976 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20180417/1523932744 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20180530/1527670001 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20180605/1528212943 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20180608/1528423805 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20180618/1529290063 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/01/28/131057 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/02/23/012722 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/04/27/153749 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2023/12/06/164821 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/08/14/171449
*4:この省略は合田によるもの。
*5:この省略は合田によるもの。