神との和解は?

「ボディ・ポリティクスの時代?」http://d.hatena.ne.jp/kurageru/20071005/1191602465


これは「受動性」を巡って、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060221/1140547241http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060315/1142441815http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060728/1154089615http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070620/1182357632http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070822/1187751553http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070923/1190523230http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070926/1190818757、或いはhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070223/1172242966http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070324/1174757531に関わるか。より直接的に関連するものとして、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070715/1184522957をマークしておこうか。
最初に掲げたテクストに戻る。先ず、「自覚的に拒食症を選ぶ人々」としての「Pro-anaプロアナ」の話。その人々の自らの身体への態度について、「ボディポリティクス(Body-politics)とでもいうべきものがあるのかもしれない」とし、


 けれども、プロアナの場合は、痩せ細った身体というのは自分の意志で獲得されたものだ。むしろ最初に与えられた身体を拒否して、理想のイマジネールなボディに近づこうという衝動によって駆動されている。つまり「私が私であること」(現実的所与)に基づいてアイデンティティが構築されるのではなく、「私ではないもの」に依拠している。それは遠心的なアイデンティティであり、脱主体的な主体化だといえるかもしれない。

 もちろん、マイノリティポリティクスのなかにも、私が黒人であるのは黒人であることを選びとったからだ、同性愛者であることを選びとったからだ、と決意する回路はあるだろう。というより、現実的所与がそのままで、不意に輝かしいあるべき主体に変化する瞬間こそがその核心かもしれない。その意味でボディポリティクスも、マイノリティポリティクスの延長線上にあるのかもしれない。しかし、プロアナほどその自己選択性が明瞭になっているケースも珍しいように思う。

という。さらに、

ここ数十年で明らかになったのは、プチ整形から性転換手術にいたるまでの幅で、自己の身体が変型可能、書き換え可能なものになりつつあるという事実だ。そして他者の身体の所与性も遺伝子診断や生命維持装置の維持といった場面ではゆらぎつつある。性格や人格を含めた身体の自然さは、徐々にartifact(人工物)との境を曖昧にしている。だとすれば、私の身体が私の座であること、身体のリアリティというものに確信が持てなくなっても不思議はない。

私は、私が私であること、私の身体や人格が今あるようにあることを自覚的な選択の結果として受けとめなければならない。これは普遍的な倫理的命題かもしれないが、これが適用される範囲が際限なくひろがっていくとしたらどうか。自分が寝坊であること、身長が165センチであること、日本人であること、この母の子であること、その他その他。生まれつきだからしょうがねえじゃん、で他人も自分も納得していたことが、あらためていかがわしく思えてくる。プロアナを支えているのはそのような感覚ではないのか。

 私たちの日常生活は、私が私であること、私の諸属性を真剣には疑わないことで成り立っている。普段の判断と行為を可能にしているのは、アリストテレスが「真らしくみえること」と呼んだような検証から除外されている通念であり、システムにおける固有値である。私はたまたまペニスを持ち合わせてはいるものの、別段自分が「男」であるという強固な確信を持ち合わせているわけではなく、しかし何となくそうふるまい、周りもそう遇することで、私を巡るシステムは円滑に作動し、その作動がまたその通念を強化する。そして「現実」というものは、そうしたシステムの作動が構成するものにほかならない。とりわけ、家族や恋人のような身近な人間との間主観的な関係のなかで織りなされていくものだろう。だが「真らしく見えること」が解体していくと、人は現実を失い、あらためて自分が何ものであるのかを確認(再構築)しなければならなくなるだろう。

身体的存在である私たちがどうしても被ってしまう受動性をどうしても許せないという意識には、遠い起源、特に基督教的起源があるにしても、基本的に言って、宗教改革以降の近代において顕著なものであると言って大過ないだろう。一方では、旧日本帝国軍隊式というか、精神注入棒というか、身体を厳しくしばくことによって、身体を精神に従属させる。他方では、身体を科学技術的操作の対象とすることによって、精神の介入を進めていく。どちらも近代的な身体観であることには変わりない。主意主義主知主義との対立か。ここで、問題とされているのは、後者の主知主義に基づく身体操作だろうか。
さて、石川忠司『極太!! 思想家列伝』*1に収録された「豪傑論――アンチ・コミュニケーション」というテクストに、アランがスピノザの思想を「神々を赦すこと」と「簡潔・端的・感動的に」要約していることが引かれている(p.257)。これをパクって言えば、近代的身体観は「神々を赦すこと」の拒否によって特徴づけられる身体観といえるのかも知れない*2。創造者たる神に〈製造者責任〉を問おうとでもいうのか。また、「プロアナ」の身体政治と対比されているマイノリティによる「アイデンティティポリティクス」*3は、社会的圧力に抵抗して、自らの身体や欲望に関して、「神々を赦すこと」を試みる運動であるといえる。それに対して、「プロアナ」という運動はさらに複雑な事情があるようだ。その原点としては、拒食症を逸脱(神の過ち?)として、治療を強制する社会的圧力への抵抗があるのだろう。しかし、その抵抗の仕方においては、自らの身体を神に委ねるのではなく、神を赦すのではなく、神の過ちを世間とは違った仕方で糾弾すべく、自らの身体をしばいていくという方法を採る。もしかしたら、問題は別のところにあるのかも知れない。自己(身体)/環境の境界の消失への恐れ――上條恒彦も「痛いのは生きている証拠だ」(「だれかが風の中で」)と歌っている。
極太!!思想家列伝 (ちくま文庫)

極太!!思想家列伝 (ちくま文庫)

ところで、鶴見済人格改造マニュアル』を或る意味で画期的な書物であると評価したことは同意。ただ、さらに遡れば、現代における新たな「神々を赦すこと」を拒否した身体観の原点(のひとつ)として、三島由紀夫という人物が浮かび上がってくるのではないか。
人格改造マニュアル

人格改造マニュアル

*1:Cf. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070928/1190960267

*2:勿論、一概にそうはいえず、身体への介入が「神々」によって与えられた身体の潜在性・可能性を顕在化・最大化しようという動機でなされることも多々ある。この差異は小さいといえるのかも知れないし、大きいといえるのかも知れない。ただ、これについては、ハイデガー的な意味における「徴発」を巡る問いが要請されるだろう。

*3:これについては、

同性愛者であること、黒人であること、女であることや在日であることは、自然から与えられた所与であり、改変不可能な事柄だ。にもかかわらず、社会のメインストリームから排除され、イレギュラーで奇妙な存在として指弾される。その怒りからマイノリティポリティクスが生まれる。
と書かれている。