ismを「道」と訳すことなど

中見真理柳宗悦――「複合の美」の思想』から。
柳宗悦*1ウィリアム・ブレイク*2について。


(前略)柳は、英国の神秘思想家であり、詩人・画家でもあるウィリアム・ブレイク(一七五七~一八二七)の研究に深くひきこまれていく。その結果、一九一四年四月にはブレイク論を『白樺』に発表し、同年末にはそれをもとに書き下ろした七百五十頁をこえる大著『ウィリアム・ブレイク』(原タイトルは『ヰリアム・ブレーク』)を上梓するにいたっている。弱冠二十五歳のときであった。この頃までには、ブレイクは白樺派やその周辺の人たちには、かなり知られていた。それでも柳を本格的にブレイク研究に向かわせた背景としては、リーチ*3の存在が大きかった。そのことは『ウィリアム・ブレイク』をリーチに捧げていることにも示されている。(pp.25-26)

(前略)柳のブレイク論は、ブレイクの本国英国でもまだ本格的研究がほとんどなされていない段階で、いち早く「無律法主義者」(心の中にある神の律法を基準とすればよく、人為的な制度上の律法に拘束される必要はないとする考えに立つ人々)としてのブレイクの本質に迫ったものとして特筆に値する。このような観点を英国の研究者が示すのは、柳のブレイク研究が出版されてから四十年以上もたってのことだった。なお柳は、晩年にいたるまでブレイクから離れることはなかった。よく彼の詩を口ずさんでいたという。(p.26)

ついで柳は二元に関する思索(略)を深めていくなかで、二元が相互依存であるという考えに到達する。一九一三年八月に執筆した論文「生命の問題」において、高低、大小、強弱、美醜、男女、愛憎などの対立的名辞が、相互的依存の関係にあると次のように述べている。「行く雲も飛ぶ鳥も、何ものか静止するものと対比されない限りその運動を知覚することはできない。……音は音なきところに響き、光は光なきところに輝く」、したがって「一切の自然現象がただ単独にそれ自身に認識し得ないことは事実」であり、「一つを得んがためには二面を要」する。(pp.53-54)

柳のこうした二元についてのとらえ方は、ブレイク思想を学ぶことによってさらに強まっていった。そのことは柳の、次のような表現に示されている。ブレイクは「意味なくしていたずらに創られた神の物は一つもない」ことを熟知していた。「天国を愛すると共に地獄を讃美した。善を追うと共に悪をも是認した。理性を重んじると共に精力を尊んだ。精神を慕うと共に肉体を謳歌した。天使の姿と共に悪魔の声にも力を認めた」、そして深い洞察力により「対立的二個の世界が一切の現象に潜むこと」を察知していた。(p.54)

ブレイクは、すべてのものが基本的にそれぞれ特殊な個性をもっていると考え、「一枝の花、一粒の砂」にも「底知れない不可思議」を認めていた。微細なものはブレイクにとって「荘厳の基礎」であった。したがってブレイクにとって、世界は単色であるはずがなかった――柳はブレイクの考えをこう受けとめ、それによって相互扶助思想を一層深化させていった。
今日、ブレイクは、思想的には広義のアナキストであり、英国アナキズムの神秘的系列に立つ人物として位置づけられている。彼はあらゆる権威や抑圧的制度を拒否し、すべての人が自分自身の支配者でなければならないと考えていたのである。(p.55)
中見さんが参照しているブレイク研究は、


寿岳文章「日本に於けるブレイク研究の歴史」in 『ヰルヤム・ブレイク書誌』ぐろりあそさえて、1929
Peter Marshall William Blake: Visionary Anarchist Freedom Press, 1988


また、


ブレイク研究を通じて、柳は、Mysticism(「神秘道」)を自己のテンペラメントに合致するものとして明確に意識することになった。以後は、神秘道(柳はイズムを嫌い、多くの場合Mysticismを「神秘道」とよんでいた)の体系的研究に向かい、ここから『宗教とその真理』(一九一九)、『宗教的奇蹟』(一九二一)、『宗教の理解』(一九二二)、『神について』(一九二三)という四冊の著作を生み出している。これらの執筆が、朝鮮での活発な活動(略)と並行しておこなわれたと知るとき、その旺盛なエネルギーには驚きを禁じえない。日本民芸館に残されている柳の蔵書はMysticismを中心にまとまりがあり、彼は日本における神秘思想受容史のうえでも重要な位置を占めている。(pp.27-28)
ところで、ウィリアム・ブレイクというと反射的に大江健三郎(例えば『新しい人よ眼ざめよ』)を想起してしまうというのは、或る世代限定の現象なのだろうか。
新しい人よ眼ざめよ (講談社文庫)

新しい人よ眼ざめよ (講談社文庫)