杉本苑子

朝日新聞』の記事;


作家の杉本苑子さん死去 91歳 歴史小説「孤愁の岸」

2017年6月2日16時54分

 「孤愁(こしゅう)の岸」や「滝沢馬琴」など、史料を読み込んだ骨太な歴史小説で知られた作家で、文化勲章受章者の杉本苑子(すぎもと・そのこ)さん*1が5月31日、老衰で死去した。91歳だった。葬儀は近親者で営まれた。後日、お別れの会が開かれる予定。

 東京生まれ。文化学院卒業後、51年に「申楽(さるがく)新記」が「サンデー毎日」の懸賞小説3席に選ばれ、選考委員だった吉川英治に師事。門下生として10年近い修業をした後、61年に初の短編集「船と将軍」を刊行。63年には幕府の権力に抵抗しながら治水工事を完成させた薩摩藩士の姿を描いた「孤愁の岸」で直木賞を受けた。

 学徒出陣の見送りや敗戦を思春期に体験したことが原体験となり、変わらないものはないという視点で歴史に向かうようになった。歴史を社会構造からとらえ直す重厚な作品から江戸の市井の人々の姿を描いたものや芸道ものまで作品は幅広く、78年に「滝沢馬琴」で吉川英治文学賞、86年に「穢土荘厳(えどしょうごん)」で女流文学賞を受賞した。「マダム貞奴」「冥府回廊」は85年のNHK大河ドラマ春の波濤(はとう)」の原作となった。

 文学性と娯楽性をあわせ持つ多くの作品で、02年に菊池寛賞文化勲章を受けた。朝日新聞では87〜88年に徳川2代将軍秀忠の娘和子らの生き方を描いた「月宮(げっきゅう)の人」を連載した。

 「小説に恋をした」と言い、生涯独身を通し、生前から著作権を含む全財産を名誉市民となった静岡県熱海市に寄贈する契約をしていた。

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 〈作家の津村節子さんの話〉 陽気でおちゃめな方でした。女流文学者会で出会い、一緒に旅をしたり、ご自宅に遊びに行ったり、気の置けない親しい友人でした。最後にお話をしたのは随分前ですが、「これからかなり長いものを書くのよ」とおっしゃっていました。心置きなく話せる相手でしたので寂しくなります。
http://www.asahi.com/articles/ASK625G1HK62UCLV00T.html

また、『静岡新聞』の「作家の杉本苑子さん死去 熱海在住、文化勲章受章者」という記事*2。その中盤以降を写しておく;

 ■貫いた「熱海愛」 旧宅開放、市民集

 5月31日に91歳で死去したことが2日明らかになった作家の杉本苑子さん。熱海市に自宅を構えて40年近く。気取らない人柄で市民と親しく接し、旧宅を市の文化座談会に開放するなど、「熱海が大好き」を公言してはばからなかった。

 杉本さんの「熱海愛」で特筆されるのは、著作権や土地家屋、預貯金など全財産を死後、熱海市に遺贈するとした約束。文学館の設立を条件に1995年、市と調印を交わした。

 「文学的に厚みのある風土なのに、文学館がないことを残念に思ってきた。執着する物を持たずに生きたいと、10代の頃から決めていた」と会見で語った。「人生の終末を迎えるに当たり、熱海のために少しでもお役に立てれば」の言葉は、22年を経た遺言として改めて響く。

 別荘として求めた旧宅はすでに市が管理し、文学館構想の実験台として展覧や集い、文化講座に開放。人々が華やかに集まる場所「彩苑」を館名に、生前は自ら講師も務めるなどし、全国から杉本ファンが訪れている。

 「憂きはひとときうれしきも思ひ醒(さ)ませば夢候よ」。室町戦国期の虚無的な世相下で編まれた歌謡集「閑吟集」の一節を、求められれば筆にした。

 「書き慣れているから書いているだけ。私が死んだ後は色紙が氾濫して、恥ずかしいぐらい」と苦笑しながらも、「どこか虚無的な姿勢は戦中派の一つの特色。だから、あの言葉にひかれる」。

 自らの歴史観構築の出発点は先の大戦であり、「日本の歴史上、初めての敗戦という事実の中で、日本人が一斉に自己批判した。なんてばかなことをしてしまったのかと。そこが日本人の優れたところ」と語った。20歳で迎えた終戦から72年、静かに息を引き取った。


 ■市長「深い悲しみ」

 熱海市名誉市民の作家杉本苑子さん死去の知らせを受け、斉藤栄市長は「突然の訃報に接し、深い悲しみと喪失感を禁じ得ない。多くの皆さまに愛された杉本先生をしのび、ご冥福をお祈り申し上げる」とコメントした。

 生前に杉本さんが文学館の設立を願い、全財産を寄贈する契約を市と交わしていたことについて、市教委の担当者は「先生の遺志を尊重しながら、具体的な方針を検討していきたい」と述べた。

 市は杉本さんから無償で借り受け、日曜日のみ一般公開している同市西熱海町の杉本さんの旧宅「彩苑」を3〜11日の午前10時から午後4時、臨時開館する。館内には記帳台を設ける。