『丸山眞男−−リベラリストの肖像』

丸山眞男―リベラリストの肖像 (岩波新書)

丸山眞男―リベラリストの肖像 (岩波新書)

苅部直丸山眞男−−リベラリストの肖像』(岩波新書)を読了する。
先ずは目次を掲げておく;

序章 思想の運命
第1章 「大正っ子」のおいたち
第2章 「政治化」の時代に
第3章 戦中と戦後の間
第4章 「戦後民主主義」の構想
第5章 人間と政治、そして伝統
終章 封印は華花やかに


参考文献
あとがき
略年譜

本書の面白さは、丸山眞男の思想の形成をその生活史的な文脈から辿っていくということにあるだろう。それはマクロ或いは客観的には「大正」、「昭和」という時代であり、また丸山が具体的に遭遇した人物や事件などである。例えば、「小学校四年生」の時に遭遇した「関東大震災」(pp.18-19、23-24)。また、重要な他者としての新聞記者だった父の丸山幹治、母親セイの「異父兄」で「政教社社主」だった井上亀六、そして父の友人であった長谷川如是閑。丸山は大学での「恩師」である南原繁と並んで、長谷川如是閑を「もう一人の師として、名ざすようになる」(p.37)。著者曰く、

如是閑という存在は、さまざまな立場の人間が、おたがいの違いを認めながら闊達にまじりあう場であった、少年時代の過程の空気を代表する人格として、丸山の終生の敬意の対象となった。あるいは、家庭内では「暴君」であり、母にさんざんな苦労をかけた父幹治とはまったく異なる理想の父親像を、如是閑に投影していたのかもしれない(p.38)。
著者が丸山眞男の子ども時代、少年時代から抽出しているのは、さまざまな意味での〈両義性〉である。例えば、丸山が育った四谷の愛住町。そこは一応「山の手の新興住宅地」であったが、近所には「荒木町の花街」、「鮫ヶ橋のスラム街」があった(p.27)*1。また、知識人でありながら、「堅気の職業」とは見なされていなかった「新聞記者」という存在の両義性(p.28)。映画と探偵小説にはまっていた中学時代の回想について、著者は

「善良生」にも「不良」にもならない中途半端な立場を楽しみながら、それを同時に鼻持ちならないと感じて自分がいやになる、二重の視線がここにある。自意識過剰のきらいはあるが、ここにはいわゆる都会人の含羞をこえた、自己に対するきびしい倫理感覚が顔をのぞかせている。丸山は後年まで、知識人と大学人としての自負をもちながら、他方では大学教授の地位にまとわりつく権威や、言論人としての名声を忌避し、それを避けることにこだわり続けた。そのどこかぎこちない、両義性を帯びた態度は、すでに中学生のころからめばえていたのである(p.35)。
と述べている。
さて、この本で扱われる丸山眞男のライフ・ヒストリーと思考は彼の長い生涯のちょうど半ば頃である60年安保頃までが中心である。だから、彼の思考、或いは彼の思考、さらには丸山眞男という存在に対する社会的評価に決定的な影響を与えたであろう大学闘争以降のこと、晩年の思考等について、著者はそれほどの紙数を使っていない。勿論それには、

実際、一九六〇年代の半ばからは、現代政治に関する評論はもちろん、思想史研究の論文も、めったに書かなくなっていた。寡作の状態が、一九九六(平成八)年八月十五日、肝臓癌のため八十二歳で死去するまで、続くことになる(p.185)
という事情があるのだが、やはり残念といえば残念。
本書が示す戦後の丸山眞男の思考・言説で印象深いのは、「大衆社会」への警戒であるとともに、「快楽主義」や「感覚的な自由」に対する敵愾心である。曰く、「終戦直後の解放の空気のなか、焼跡闇市にうずまく赤裸々な欲望は、丸山にとっては「天皇制」と並ぶ、目の前のもう一人の敵なのであった」(p.145)。これは著者が本書の前半で描く両義性に満ちたその少年時代との関係で興味深い主題なのだが、著者はその関連については殆ど言及しない*2。勿論、戦後民主主義の頂点ともいえる60年安保闘争にも「大衆社会状況」への不安を隠さず(p.179)、1960年代以降急速に新しい政治主体として脚光を浴びるようになる「市民」に対しても幻想を抱かず、却って「大衆社会における不安と孤立感を共同体との合一化で癒そうとする、ファシズム紙一重の危うさ」(p.181)を見出してしまう丸山の「大衆社会」論が現在でも真面目に検討されるべき価値を有していることはいうまでもない。
あと、本書においては小ネタに属するのだろうが、興味をそそられたこととしては、「天皇制」を巡る恩師・南原繁との確執(pp.136-138)、丸山とフーコーとの出会い(pp.202-204)、また丸山の末弟であるフリー・ライターの丸山邦男についての記述(pp.146-148)等があった。
ところで、著者は「丸山病」という言葉から本書の記述を始めている(p.3)。「丸山を批判する言説が一様に帯びる、独特の熱気」(ibid.)。勿論、丸山を「擁護」する側も同様である(pp.5-6)。これについては全く同感である。というか、私が大学院生であった頃は、丸山といえば丸山圭三郎であり、マサオといえば山口昌男の時代であった。

*1:著者が丸山眞男の生い立ちを語るときに念頭に置いているのは、愛住町の「隣町」である「永住町二番地」で生まれ育った、丸山よりも11歳下の三島由紀夫である(pp.38-40)。曰く、「立場は異なるとはいえ、(略)戦後社会の「ニュートラル」さや「のっぺらぼう」を批判するとき、二人の脳裏にはともに、かつての山の手でも場末でもある、複雑な陰影に富んだ四谷近辺の風景が、浮かんでいなかっただろうか」(p.40)。

*2:私たちの世代が丸山眞男を初めとする所謂戦後近代主義者に抱いた反感は寧ろその生真面目さ、道学者ぶりに対するものだったといえる。