渋沢と水(メモ)

飯森明子「『論語と算盤』から、さらにその向こうへ」『歴史書通信』(歴史書懇話会)247、pp.2-5、2020


「渋沢研究会運営委員」であるという。
渋沢栄一*1と「洪水」について言及された一節を書き写しておく。


渋沢の故郷、埼玉県深谷市利根川中流域右岸にある。生家のある血洗島という地名からも、水に深い縁があることがわかろう。渋沢は故郷の洪水を直接体験していないが、村の古老たちから渋沢が生まれる少し前の洪水の話は聞いていたに違いない。あるいは、明治末期の東京大洪水や大正末の関東大震災では渋沢も自ら被災しつつ、同時に積極的な支援活動を行った。このような災害の体験は、貿易相手国に対する儀礼というよりも、被災した人々の窮状を理解した教官の表出となって、海を越えた災害支援にもあらわれる。
たとえば1931年夏から秋、中国を襲った大洪水に対する渋沢の支援への熱意は、日本政府や陸軍の満州での行動と対照的である。不安定な中国の内政や日中関係はどうであろうと、洪水に苦しむ人々に日本の「民」からの支援を少しでも届けようと、渋沢はラジオを通して義援金を呼び掛けた。しかし支援物資と義援金を乗せた船が日本を出港直後に満洲事変が勃発、中国は支援を一切拒否し、物資も義援金も被災した人々に届くことはなかった。(p.4)

Tatsuro on Specter Hibari

ハフポスト日本版編集部「山下達郎さんがNHK紅白の『AI美空ひばり』をバッサリ斬る。「一言で申し上げると冒涜です」」https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5e24f25bc5b673621f782186


「シンガーソングライターの山下達郎さん*1が1月19日、自身のラジオ番組『山下達郎のサンデー・ソングブック』(TokyoFM)で、2019年の『第70回NHK紅白歌合戦』で話題となった『AI美空ひばり』によるパフォーマンスについて「冒とくです」と表現し、否定的な考えを示した」;


山下さんが『AI美空ひばり』に言及したのは、番組開始から35分が過ぎた頃だった。

リスナーから届いたお便りで、「単刀直入にお聞きします。昨年の紅白、『AI美空ひばり』についてはどう思われますか?私は技術としてはありかもしれませんが、歌番組の出演、CDの発売は絶対に否と考えます。AI大瀧詠一とかAI山下達郎なんて聴きたくありません」と感想を求められた。

この質問に対して山下さんは、「ごもっともでございます。一言でも申し上げると、冒とくです」と批判した。

この紅白については、いいたいことが後、1つか2つあるのだった。

俺も知らなかった


たしかに「ヤベー」けど、福生にあるのに何故「横田基地*1なのかは俺も知らなかった。
Wikipediaに曰く、

多摩飛行場の敷地大部分が当時の西多摩郡福生町(現在の福生市)にあったことから、地元や陸軍航空審査部では福生飛行場(ふっさひこうじょう)と呼ばれていた。

この多摩飛行場・福生飛行場を、アメリカ軍が戦中より「YOKOTA」と呼称したのは、アメリカ陸軍地図サービスが1944年に作成した地図資料『JAPANESE AIRFIELDS』では、北多摩郡村山町(現在の武蔵村山市)の大字名であった「Yokota」が、「Fussa」や「Hakonegasaki」より飛行場近くに記載されていたためと考えられており、地名としての「横田」は現在では消滅したものの、「武蔵村山市役所」の西隣のバス停名称として残っている。

その後は、横田基地が存在していることにより、「横田」を冠したトンネルや店舗、教会が点在するようになっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E7%94%B0%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E5%A0%B4

ここで典拠として使用されているのが、


いまぎね「横田基地名の由来」http://www004.upp.so-net.ne.jp/imaginenosekai/yokota-name.html


という文章。というか「 ヤベー」人もこれ読んでいるんだ!
何れにせよ、「横田めぐみ」さん*2が生まれるかなり前から「横田基地」は「横田基地」或いは「横田飛行場」として存在し続けていたわけだ。まあ、一つの王朝が2000年以上も持続している筈の国でたかだか数十年前の歴史が蒸発してしまうというのも不思議だ。

宍戸錠

NHKの報道;


俳優 宍戸錠さん死去 86歳
2020年1月21日 18時55分


「エースのジョー」という愛称で人気を博し、数々の映画やドラマでアクションスターなどとして活躍した俳優の宍戸錠さん*1が亡くなりました。86歳でした。

宍戸さんは、昭和8年、大阪で生まれ、日本大学芸術学部演劇科を中退したあと、昭和29年、日活ニューフェイスの第一期生として俳優になり、よくとし、映画「警察日記」の若い巡査役で本格的にデビューしました。

当初は二枚目俳優として売り出していましたが、イメージを変えるため、みずからほおを膨らませる手術を受け、その後は膨らんだほおがトレードマークとなりました。

そして「渡り鳥」シリーズなど数多くの映画で主人公の敵役として出演し、「エースのジョー」の愛称で人気を博しました。

昭和36年には、主演をつとめた「ろくでなし稼業」や「早撃ち野郎」などがヒットして、アクションスターとしての地位を不動のものとし、500本近い映画に出演しました。

映画以外にもNHKの大河ドラマ武田信玄」や「葵 徳川三代」など数々のテレビドラマに出演し、貫禄のある演技で存在感を発揮してきました。

また、民放の料理番組のリポーターを務めたほか、バラエティー番組にも出演するなど幅広い分野で活躍し、明るくて気さくなキャラクターで人気を呼びました。

長男の宍戸開さんも俳優として活躍しています。

宍戸錠さんは86歳で亡くなりました。


渡哲也さん「ご冥福をお祈りします」
昭和40年に宍戸錠さんとの共演で映画デビューした俳優の渡哲也さんは「日活の『あばれ騎士道』で錠さんの弟役としてデビューさせてもらいました。ご冥福をお祈りいたします」とコメントしています。


吉永小百合さん「高校の期末試験の時も…」
宍戸錠さんと長年交流があった俳優の吉永小百合さんは「日活でのデビュー作からご一緒させていただきました。高校の期末試験の時も『小百合、勉強教えてやるよ』と優しく声をかけてくださったことは、今でも忘れられません。本当にすてきな大先輩でした」とコメントしています。


北大路欣也さん「感謝の気持ちでいっぱい」
宍戸錠さんが亡くなったことについて、昭和49年に映画「仁義なき戦い 完結篇」などで共演した俳優の北大路欣也さんは「憧れの先輩と仕事をご一緒させていただいた喜び。そしてプライベートでは、野球チームを作って思いっきり楽しんだ思い出。忘れることができません。感謝の気持ちでいっぱいです」とコメントしました。


松原智恵子さん「優しくて面倒見のいい先輩」
昭和36年の映画「紅の銃帯」で宍戸錠さんと共演した俳優の松原智恵子さんは「はじめての乗馬シーンで錠さんがいろいろ教えてくださったおかげで撮影がうまくいき、『ちーこ、凄いな馬に乗ってセリフが言えるなんて!』と褒められた事を思い出しました。とても優しくて面倒見のいい先輩でした。心からご冥福をお祈りいたします」とコメントしています。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200121/k10012253531000.html

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また、『スポーツ報知』の記事;

高橋英樹宍戸錠さんとの別れを惜しむ「指針であり、憧れの大先輩」
1/21(火) 23:02配信スポーツ報知


 俳優の高橋英樹(75)が21日、都内で「日本ジュエリーベストドレッサー賞」の表彰式に出席。式典後に取材に応じ、日活時代の先輩である宍戸錠さんについて「我々の指針であり、憧れの大先輩」と語った。

 突然の悲報を受け、「日活時代から58年ほどの付き合いですから、さびしいですね。昭和を代表する大スターで愛すべき大先輩。日活に憧れて、日活で育った世代としては悲しいですね」。最後に会ったのは1年ほど前で「しゃべるのが、おっくうそうでしたね。火事があったり、奥さんが亡くなったり、心配していました」と振り返った。

 錠さんに憧れ、1961年に17歳で日活が募集する「日活ニューフェイス」第5期生に合格した高橋は、初めて会った日のことも鮮明に覚えている。「試験の日、錠さんと二谷(英明)さんが『今年のニューフェイスは、いいやついるか?』と言って部屋に入ってきて、『いねーな』と言って出て行った」。試験で錠さんのモノマネを披露したそうで「錠さんの出ている映画を何本も見ていましたから。錠さんがいなければ、今の僕はない」と感謝した。

 デビュー当時、日活は「和製ジェームズ・ディーン」こと赤木圭一郎さん(享年21)が事故死し、昭和の大スター石原裕次郎さん(享年52)もスキーで負傷した直後で、高橋への期待が大きかった。「日活には素晴らしい先輩が多く、日活学校のように多くのことを学ばせていただきました」。錠さんをはじめ、二谷さん、小林旭(81)ら先輩俳優と共演することで影響を受けたという。

 錠さんとは自宅が近く、お互いの家を行き来する間柄だった。「食事にも行きましたし、マージャンをして遊んだこともありました。もう少し元気でいてほしかった」と別れを惜しんだ。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200121-01210238-sph-ent

ところで、この記事で言及されている役者たち。高橋英樹*2を除けば、生き残っているのは小林旭*3だけ。また、赤木圭一郎も生きながらえていれば80代か!

「安保」の2つの意味(保阪正康)

保阪正康*1戦後民主主義への儀式」『毎日新聞』2020年1月18日


60年安保闘争60周年に寄せて。
「今の私は、あの市民的デモの広がりの意味が2点に要約できるのではないかと思っている」ということで;


一つは、岸首相*2に代表される戦前戦時下の指導者の体質に国民が不快感を持ち、その政治的な言動を許容しないと明確に意思表示したことである。「岸、やめろ」というプラカードやシュプレヒコールなどは、その表れである。大仰な言い方になるが、全国にその声は広まり、小都市や町、村でさえこうした意思表示のデモがあった。私は、あの安保反対デモは、日本が戦争の時代から民主主義の時代へ移行するための儀式だったと理解するようになった。
そしてもう一つ。この時のデモには、組織に属さない人たち(個人の事業主などから主婦ら一般の庶民まで)が参加するようになった。学生や労働組合員も、組織動員であれ、意識としては個人でデモに参加した。つまり、市民がデモをする権利を確認し、政治的意思を示すのは当然だという考えが生まれたのであった。歴史的にいうならば、ここで日本人は、「臣民から市民へ」の道を歩むことになったのである。市民的自覚といった表現が日本社会に生まれ、定着していく契機になったといってもよいであろう。
あれは戦後民主主義を確認する壮大な儀式だったと受け止めると、より理解が深まる。その戦後民主主義は、以後の日本でどう推移したか。私の60年間を振り返ることは、その問いに重なるように感じられる。私は市民たり得ているのか、あるいは戦後民主主義の精神を生かしているのか、を自問自答する必要があると考えたりもする。
民主的社会とは「デモ」が存在する社会。ここで謂うところの「デモ」の対極として、「提灯行列」というのが考えられるのかも知れない。原武史*3は『平成の終焉』の中で、1980年代における天皇に対する「提灯奉迎」の復活に言及している(p.88ff.)。
平成の終焉: 退位と天皇・皇后 (岩波新書)

平成の終焉: 退位と天皇・皇后 (岩波新書)

また、最近読んだ小嵐九八郎、柄谷行人柄谷行人政治を語る』が興味深かった。柄谷氏曰く、「僕は一九六〇年に大学に入学し、全学連安保闘争に参加した、いわゆる「安保世代」です」(p.10)。「僕は自分が「全共闘世代」ではない、ということを強調したいのです」(ibid.)。また、

(前略)ヨーロッパ、とくにフランスの場合、左翼の学生・知識人の間で共産党の権威が失墜したのが一九六八年です。だから、画期的なものとみなされる。しかし、日本では、それが一九六〇年に起こった。六八年の時点では、共産党の権威はまったくなくなっていました。また、六八年の時点では、新左翼の運動はほとんど学生に限られていて、労働運動や農民の運動はすでに衰退していたと思います。フランスの五月革命の場合、そうではなかった。新左翼や学生の運動は、労働組合共産党と並ぶかたちで存在していた。その意味では、むしろ、日本の「六〇年」に似ていたのです。もちろん、七〇年以後には、ヨーロッパの新左翼運動も日本と同じようなかたちになっていったのですが。(pp.11-12)