「安保」の2つの意味(保阪正康)

保阪正康*1戦後民主主義への儀式」『毎日新聞』2020年1月18日


60年安保闘争60周年に寄せて。
「今の私は、あの市民的デモの広がりの意味が2点に要約できるのではないかと思っている」ということで;


一つは、岸首相*2に代表される戦前戦時下の指導者の体質に国民が不快感を持ち、その政治的な言動を許容しないと明確に意思表示したことである。「岸、やめろ」というプラカードやシュプレヒコールなどは、その表れである。大仰な言い方になるが、全国にその声は広まり、小都市や町、村でさえこうした意思表示のデモがあった。私は、あの安保反対デモは、日本が戦争の時代から民主主義の時代へ移行するための儀式だったと理解するようになった。
そしてもう一つ。この時のデモには、組織に属さない人たち(個人の事業主などから主婦ら一般の庶民まで)が参加するようになった。学生や労働組合員も、組織動員であれ、意識としては個人でデモに参加した。つまり、市民がデモをする権利を確認し、政治的意思を示すのは当然だという考えが生まれたのであった。歴史的にいうならば、ここで日本人は、「臣民から市民へ」の道を歩むことになったのである。市民的自覚といった表現が日本社会に生まれ、定着していく契機になったといってもよいであろう。
あれは戦後民主主義を確認する壮大な儀式だったと受け止めると、より理解が深まる。その戦後民主主義は、以後の日本でどう推移したか。私の60年間を振り返ることは、その問いに重なるように感じられる。私は市民たり得ているのか、あるいは戦後民主主義の精神を生かしているのか、を自問自答する必要があると考えたりもする。
民主的社会とは「デモ」が存在する社会。ここで謂うところの「デモ」の対極として、「提灯行列」というのが考えられるのかも知れない。原武史*3は『平成の終焉』の中で、1980年代における天皇に対する「提灯奉迎」の復活に言及している(p.88ff.)。
平成の終焉: 退位と天皇・皇后 (岩波新書)

平成の終焉: 退位と天皇・皇后 (岩波新書)

また、最近読んだ小嵐九八郎、柄谷行人柄谷行人政治を語る』が興味深かった。柄谷氏曰く、「僕は一九六〇年に大学に入学し、全学連安保闘争に参加した、いわゆる「安保世代」です」(p.10)。「僕は自分が「全共闘世代」ではない、ということを強調したいのです」(ibid.)。また、

(前略)ヨーロッパ、とくにフランスの場合、左翼の学生・知識人の間で共産党の権威が失墜したのが一九六八年です。だから、画期的なものとみなされる。しかし、日本では、それが一九六〇年に起こった。六八年の時点では、共産党の権威はまったくなくなっていました。また、六八年の時点では、新左翼の運動はほとんど学生に限られていて、労働運動や農民の運動はすでに衰退していたと思います。フランスの五月革命の場合、そうではなかった。新左翼や学生の運動は、労働組合共産党と並ぶかたちで存在していた。その意味では、むしろ、日本の「六〇年」に似ていたのです。もちろん、七〇年以後には、ヨーロッパの新左翼運動も日本と同じようなかたちになっていったのですが。(pp.11-12)