「醜悪」だとは思う


AKB48の総選挙って醜悪だと思わない?


AKB48の総選挙。一見すると人気投票のようにも見えるが、皆さんご存じの通り、あれは一人一票じゃなくて1票金額いくらで手に入る。財力にモノを言わせて一人で何票でも投票できる。

だから、あの選挙は各メンバーがどのくらい集金力があるかを競うゲームってのが本質。で、問題なのはそんなゲームをTVで見せていいのかってこと。彼女たちは若さとルックスがどのくらい換金できるかってところをオープンに、無邪気に子供たちに見せている。特に女の子にとっては、自分の若さとルックスは換金可能であると言うことを強烈にアピールしてると思うんだ。

それって醜悪だと感じるのは俺だけかな。自分と言う存在が換金可能ですよ、と言う資本主義を押しこんでくる訳だ。TVは一方では世界に一つだけの(代替不可能な)花とかあなたは世界に唯一な存在だとか言いながら、もう一方で皆の前に金に換算された順位で晒される訳だ。しかも説得力があるのがどちらかと言うと後者だよね。

子供が出来たせいか、そういうのを考えてしまう。もちろん、醜悪なものを子供から隠すだけが親の役目じゃあないことくらい理解してる。敢えて現実を見せて、どう対応するか考えさせることも必要だ。だけど、自分の子供が旅立っていく世界が、そういう金に支配されたように見える世界ってことが、俺は親としてこんな世界を子供に渡してイイのだろうかと思うのだ。
http://web-g.org/post/52867209065

たしかに「醜悪」だということは同意するけれど、それ以上にというか、それ以前に、山下達郎さんの(AKB48は)「僕の人生に必要ありません。向こうも同じだろうけど(笑)」という言説に同意しているのだ*1。「醜悪」ではあれ、その「総選挙」或いはAKB48自体が社会的に必要とされている。また必要を感じている人たちがいる。このことは認めなくてはならないだろう。ただ、さらに「醜悪」だと思うのは、マスコミなどがAKBを「国民的アイドル」として、或いはその「総選挙」を国民的行事として構築しようとしていることの方だ*2
ところで、「TVは一方では世界に一つだけの(代替不可能な)花とかあなたは世界に唯一な存在だとか言いながら、もう一方で皆の前に金に換算された順位で晒される訳だ」ということだけれど、これに関しては、哲学的・社会学的な〈自己論〉を展開する必要があるだろう。つまり、「代替不可能」な私と「換金可能」な私とは同じ〈私〉ではない。この人だって、「自分の若さとルックスは換金可能である」と書いており、「自分」(私)は「換金可能である」とは書いていないでしょ。取り敢えず議論の手がかりとして、ミード流のI/meの区別、アレント的な意味におけるwho/whatの区別、或いはサルトル流のexistence(現実存在)/etre(本質存在)の区別とか。