「三等車」は知らない

尾関章*1「清張×原武史=鉄道の妙という話」http://book.asahi.com/reviews/column/2013050700005.html *2


原武史編『松本清張傑作選 時刻表を殺意が走る 原武史オリジナルセレクション』という本の紹介なのだが、松本清張とは関係のない書き出しの部分;


 ずっと、ずっと昔のことだ。僕は「三等車」のなかで、初めての「まちで見かけた有名人」体験をした。ぱっちりとした目、きらびやかな衣装。まるでフランス人形のような、という言葉がぴったりの子役タレントと居合わせたのだ。

 昭和30年代、東海道本線の鈍行だったと思う。大混雑していた。彼女がどこかの駅で乗り込んでくると、車内にどよめきが起こった。付き添いの人に守られて乗客をかきわけるように進み、僕の家族が座るあたりに近づいてきた。そして、席を詰めた僕の隣にちょこんと腰かけたように記憶している。三等車の硬い背もたれの感触がよみがえってくるような思い出だ。

 50年以上も前のことだから、もはや「歴史」と呼んでもよい出来事だ。彼女の名を明かしてもよいだろう。松島トモ子さんだ。大人になっても女優として活躍し、動物好きで知られるが、当時は映画に出たり、童謡を歌ったりして一世を風靡していた。

 さて、この体験で一つだけ、はっきりと言えることがある。僕はあのときの松島トモ子さんの横顔をその美しい睫毛とともに生涯忘れないが、松島さんは僕の顔を覚えていないだろうということだ。

 この非対称を恨んでいるわけではない。僕だって、けさ電車に乗り合わせた人の顔を思い出すことはできない。そう考えると、鉄道は不思議な世界だ。乗客たちは一つの場所、一つの時間を濃密に共有する。だがふつう、その記憶は次々に上書きされて埋もれていく。

「三等車」ですよ。「三等車」というのはいったい何時廃止されたのか。私は旧国鉄(JR)の「一等車」「二等車」を知っている最後の世代に属するかも知れない。たしか、私が小学校3年生だった1969年に「一等車」「二等車」が現在のような「グリーン車」「普通車」になったのだと思う*3。なので、「三等車」の記憶はない。勿論、「三等車」が実際にどのようだったのか、私が乗ったことのある「二等車」(「普通車」)とどう違っていたのかということも知らない。
また、「鈍行」という言葉もかなり久しく聞いていないし、使ってもいない*4「各駅停車」或いは略して「各停」というのは今でもよく使うのにね。対としてある筈の急行が姿を消して久しいから? 中央線の「アルプス」とか上越線の「佐渡」といった急行たちは、民営化以前に姿を消していた筈。最後まで残っていた東海道線夜行の「銀河」がなくなってからだってかなり経つ筈。
松島トモ子さんだけど、麦茶のCMに出ていましたよね。というか、松島トモ子という名前を聞くと、反射的に「ミネラル麦茶」というフレーズがメロディと共に甦る。最初は江利チエミ*5が出ていて、彼女が急死した後に、松島さんが出るようになったんじゃないかな。とはいっても、記憶が全く捏造されてしまっている可能性も感じている。

*1:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20170111/1484108115

*2:Via 「松本清張の快作ミステリー「顔」- 鉄道の旅と「いもぼう」と「唇の厚い男」と」http://kj-books-and-music.hatenablog.com/entry/2018/03/10/105833

*3:「一等寝台」「二等寝台」が「A寝台」「B寝台」になったのが「グリーン車」「普通車」と同時だったのかどうかは知らない。

*4:国鉄(JR)の用語なのかどうかも知らない。正式の呼称としては、「普通列車」或いは「普通電車」だろう。因みに、「緩行」というのは国鉄(JR)の用語としてあるよね。例えば「総武緩行線」。総武線で、快速や特急ではなく檸檬色の電車が走っている線路。

*5:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20141118/1416325456 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20141123/1416673882 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20141230/1419916368 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20151125/1448386664