内田on 大瀧詠一(メモ)

承前*1

内田樹大瀧詠一師匠を悼む」http://blog.tatsuru.com/2014/01/03_0818.php
内田樹大瀧詠一の系譜学」http://blog.tatsuru.com/2013/12/31_1454.php


内田氏には「大瀧詠一師匠来臨」という2008年のエントリーがある*2
大瀧詠一の系譜学」から少し抜き書き;


「これからは・・・の時代だ」とか「・・・はもう古い」ということばづかいの前提にあるのは、この歴史の淘汰圧への盲信であると言ってよいでしょう。
このような考え方を本稿では「歴史主義」と呼ぶことにします。
歴史主義は音楽史を語るときの私たちの考え方にも深く浸透しています。現に、いまだに「今・ここで・私が」聴いている楽曲こそ、歴史の審判と市場の淘汰を生き延びた、もっとも洗練され、もっとも高度で、もっとも先端的な音楽であると、何の根拠もなく信じているリスナーは少なくありません。人々の嗜好が変わり、ひとつの音楽ジャンルが衰微すると、それにつれて、それまで我が世の春を謳歌していたプレイヤーもソングライターもプロデューサーも・・・次世代に席を譲って、表舞台から退場する・・・という諸行無常盛者必衰の歴史主義が声高に語られ、リスナーはそれを信じ込まされています。もちろん、音楽商品が短期的に無価値になる方が資本主義的にはベネフィットが大きいからです。
けれども、音楽の「変化」(それは決してレコード会社や音楽評論家たちが信じさせようとしているように「進化」ではありません)はほんらいもっとランダムで、もっとワイルドなものだったのではないのでしょうか?
キャロル・キングの音楽的遍歴について山下達郎さんと語った中で、大瀧さんは「ひとりの音楽家にひとつの音楽ジャンルでの活動しか認めない」硬直した歴史主義に鋭い批判を突きつけています。

歴史学者と系譜学者の発想の違いを一言で言うと、歴史学者は「始祖」から始まって「私」に達する「順−系図」を書こうとし、系譜学者は「私」から始まってその「無数の先達」をたどる「逆−系図」を書こうとする、ということにあります。
歴史学的に考えると、祖先たちは最終的には一人に収斂します。『船弁慶』の平知盛が「われこそは桓武天皇九代の後胤」と告げるのは典型的に歴史主義的な名乗りです。
しかし、これはよく考えるとかなり奇妙な計算方法に基づいたものです。というのは、私たちは誰でも二人の親がおり、四人の祖父母がおり、八人の曾祖父 母・・・つまり、私のn代前の祖先は2のn乗だけ存在するはずだからです。平知盛の九代前には計算上は512人の男女がいます。にもかかわらず、知盛が 「桓武天皇九代の後胤」を名乗るとき、彼は残る511人をおのれの「祖先」のリストから抹殺していることになります。
たしかに、歴史学的な説明はすっきりしています(しばしば「すっきりしすぎて」います)。系譜学はこの逆の考え方をします。「私の起源」、私を構成してい る遺伝的なファクターをカウントできる限り算入してゆくのが系譜学の考え方です。ファクターがどんどん増えてゆくわけですから、これをコントロールするの は大仕事です。けれども、まったく不可能ということはありません。それは、炯眼の系譜学者は、ランダムに増殖するファクターのうちに、繰り返し反復される ある種の「パターン」を検出することができるからです。
歴史学者レディメイドの「ひとつの物語」のうちにデータを流し込むものだとすれば、系譜学者は一見すると無秩序に散乱しているデータを読み取りながら、それらを結びつけることのできる、そのつど新しい、思いがけない物語を創成してゆくことのできる人のことです。
そういえば、渡辺彰規氏の「M.Foucault,「savoir」概念による社会把握の試み」*3へのコメントを行うことを、(こちらの事情もあって)ずっと抛り投げていたということを思い出したのだった。
さて、エヴァリー・ブラザーズ*4の弟(フィル)が亡くなっている。享年74歳;


Randy Lewis “Phil Everly of the Everly Brothers dies at 74” http://www.latimes.com/entertainment/music/posts/la-et-ms-phil-everly-of-the-everly-brothers-dies-at-74-20140103,0,2091176.story
Reuters “Phil Everly of the Everly Brothers dies at 74” http://www.theguardian.com/music/2014/jan/04/phil-everly-brothers-dies-74