「反照的二重化」(メモ)

先日、市田良彦ルイ・アルチュセール――行方不明者の哲学』から、ちょっと文脈不明な引用をしてしまった*1。その前提となるパッセージを抜書きしておく。


(前略)デカルトは数学的真理すら疑う「方法敵会議」の果てに、「私は考える」(コギト)をもって「私は存在する」の根拠となし、「私は考える、ゆえに私は存在する」の確実性に、考える内容の真実性――数学的真理がほんとうに真であること――を保証させた。その点だけを見ると、デカルトにおいては、考えることそのもの、私が考えるということ自体が、真理の最終「基準」をなすかのようである。
だとすれば、スピノザの言う「真なる思惟の形相」がそれとさほど異なっているようには見えない。・スピノザも考えることそのものとしての「知性」の「本性」――それがなにかはさておき――に真理の「基準」を求めている、と言ってまずいはずはないからである。
けれども『省察』のデカルトは、考えること自体をもう少し精緻に構造化している。「いま私は光を見、騒音を聞き、熱を感じている。これらは虚偽である、私は眠っているのだから、と言えるかもしれない。けれども、私はたしかに見ていると思いvidere videor,聞いていると思いaudire videor,熱を感じると思っているcalescere videor. これは虚偽ではありえない。これこそ本来、私において感覚すると呼ばれているところのものである。そして厳格に解するならば、これこそ考えることにほかならない」(「第六省察」、強調引用者*2)。「思っている」と訳されるvideorを直訳すれば「見ている」である(英語ではseem, フランス語ではsemblerなどの訳語が充てられる)。
ここでのデカルトによれば、コギトは構造的には「見ている=考えている」の反照的二重化――「見ていることを見ている」/「考えていると考えている」――であるわけだ。彼にとっては、「私は考える」はひょっとすれば虚偽かもしれないけれども、「私は考えていると考えている」は確実に真である。デカルトはコギトの反照的二重化に真理を保証させた、あるいは真理の「基準」を二度目の「考える」に置いた、といっていいだろう。一度目の「考える」が「科学(者)」の「考える」であり、二度目の「考える」が「哲学(者)」の「考える」とであるともみなせば、なるほどデカルトは「哲学」に「科学」の「科学性」をそとから保証させている。(pp.86-88)
「反照的」。どうしても「再帰的」と言い換えたくなる*3