産む理由

大塚玲子「「親のエゴ」でなく生まれる子はいない?」http://mamapicks.jp/archives/52172816.html


曰く、


どうして子どもを持とうと思ったか? 筆者の場合は、こんな理由でした。

理由、その1。
いつか死ぬことが怖すぎて、自分の一部分を何かこの世に残せれば、安心して死ねるような気がしたから。自分の子どもを持てれば、それが叶うように思ったのです。

だから実際、子ども産んだときは、「あー、これでいつでもいいや」と、ちょっと思いました。いまは、「わたし抜きで子どもが生きていけるところまで見届けないと死ねませんわ」と思っていますけれど。

もしかしたらピンとこない人もいるかもしれません。死ぬことを怖いと感じるかどうかは、かなり個人差があるようなので。「なかにはそういう人もいるんだな」と思っていただければと……。

理由、その2。
「付いている機能だから試したい」という気持ちもありました。
子どもを産める機能が己の身体についているので、これは使っておきたい、というような願望です。

たとえば新しい電化製品を買ったとき、「こんなスゴイことができますよ!」という売りの機能があったら、やっぱり「使ってみたい」と思うではありませんか? 使っておかないと損、という気がしてしまう。それと近い感覚じゃないかと思います。

また、

「ほかの人は、どうして子どもを持とうと思ったのだろう?」と思い、以前ツイッターで投げかけてみたことがあります。すると、こんな答えが返ってきました。

「子宮の手術をした後、『子どもができないかも』と言われて、逆にやる気になった」
「遺伝子保存の本能、理屈ではない情動」
ミーム(文化の遺伝子)の伝達」
「子どもが好きで、“自分の子”というのがどうしても欲しかった。親子というものが特別な関係に思えてならず、“子の親”になりたかった」
「(パートナーとの)かすがいとして。ふたりの関係を強めるため」

などなど。筆者と似たようなところで、「生きた証を残したかった」とか、「機能を使いたかった」という人もいました。

一番多かったのは、「言語化はしづらいけれど、なんとなくそう(子どもをもつと)思っていた」という声です。

そんななかでも、わりとはっきりと理由を教えてくれたのは、レズビアンカップルの友人たちでした。彼女たちは、「なぜ子どもが欲しいか?」ということを、ヘテロ異性愛)のカップルよりも深く考えざるを得ないのでしょう。

まあ人それぞれということなのだけど、興味深い。
さて、江戸時代の人も「なぜ子どもが欲しいか?」と自問自答し、「言語化」したのだろうか。大塚さんは、「レズビアンカップル」は「「なぜ子どもが欲しいか?」ということを、ヘテロ異性愛)のカップルよりも深く考えざるを得ないのでしょう」と言っている。同性愛のカップルにとっては、〈子どもを持つ〉ということは「ヘテロ異性愛)のカップル」よりも自明度が低いということだろう。しかし、それは比較級の問題というか程度の差にすぎないとも言えるだろう。仮令「 なんとなくそう(子どもをもつと)思っていた」という結論ではあっても自問自答して「言語化」しているということは、「ヘテロ異性愛)のカップル」にとっても〈子どもを持つ〉ということが完全に自明なことではなくなているということを意味する。少なくとも、自明度が江戸時代の人よりもかなり下がっているということはたしかなのではないだろうか。
これは、私たちが再帰性(reflexivity)や客体化(objectification)をその実存的境位の重要な要素としている近代社会に生きていることの表れなのだともいえる*1。逆に言えば、近代、とりわけ今のような後期近代社会において、幸か不幸か、私たちは何も考えずに生き・死ぬということが困難になっているともいえる*2。それだけではなく、無自覚的に日本人であったり中国人であったり英国人であったり、或いはムスリムであったりクリスチャンであったり、することも困難に。この困難と、レイシズムナショナリズムや宗教的原理主義の興隆は連動している。また、自覚的であれ! 自省的=再帰的であれ! という要請に対するうるせー! という反発が現象としての〈ヤンキー〉*3の底流にあるのかも知れない。しかし、それは自省性=再帰性の要請に対するだだ捏ねとしてのみ意味を持っているのであって、もし正面から〈ヤンキー〉的な自己主張をせんとするなら、或る種の自省性=再帰性を以て行わなければならないということになる。