「自分探し」の変容?

承前*1

内田樹「階層化する社会について」http://blog.tatsuru.com/2010/11/10_1216.php


内田氏曰く、


「自分らしさ」イデオロギーによると、「私」は誕生の瞬間においてもっとも純良な「自分らしさ」をすでに達成している。
それ以後の成長過程で外部から外付けされたものはすべて「自分らしくないもの」である。
それゆえ「自分探し」とは、自分が後天的に学習してきた価値観やものの感じ方や表現法などを削り落とし、剥がし落とし、「原初の清浄」に立ち帰ることを意味することになる。
これは言い換えると、「私は知るべきことはすでに知っている。私がこれから実現すべきことのすべてはすでに胚芽的なかたちで私に内在している。私が私であるために外部から新たに採り入れなければならないものは何もない。私が所有すべきすべての知識と技術を私はすでに所有している」ということである。
問題は「私がすでに潜勢的に所有しているもの」を現勢化するための「チャンス」(しかるべき地位や年収、しかるべき敬意や配慮)が(誰かがそれを不当に占有しているために)まだ「私」に分配されていないことに尽くされる。
そのようにして、「自分らしさ」「自分探し」イデオロギーは「無権利者が占有している資源はほんらいの所有権者たる『私』に戻されねばならない」という「政治的に正しい」社会的格差解消論に結びつくことになる。
現代社会における「自分らしさ」の言説については、例えば土井隆義氏の『「個性」を煽られる子どもたち』とかも検討する必要があるのだろう。ところで、上で内田氏が要約しているようなことを誰が言っているのか。具体的な人名とか題名とか、全然見当がつかないのだ。いったい誰なの? 誰か教えて!また、「「自分探し」とは、自分が後天的に学習してきた価値観やものの感じ方や表現法などを削り落とし、剥がし落とし、「原初の清浄」に立ち帰ることを意味することになる」。これについては意味深長なものを感じたということはあるのだが、今は脇に置いておくことにする。それから、「自分探し」の意味が変わってしまったことに気づく。
ミードを引っ張り出すまでもなく、私(me)或いは自己(self)というのは他者或いは外部環境の自分に対する反作用を通して、再帰的な仕方でしか、(自分にとって)見出されることはない。「自分探し」というのは、現在のこの環境における「自分」が(自分にとって)ほんものではないと感じられるときに始まるわけで、そういう今までの「自分」ではなくて新しい「自分」を見つけるには、他者や外部環境を変えようということになり、「自分探し」といえば〈旅〉に出るのが定番ということだった(筈だ)。或いは消費を通して。この服を着れば、或いはこの車に乗れば、今までとは違った〈ほんとうの自分〉になれる。そういうわけで、上野千鶴子さんの消費社会論は『「私」探しゲーム』だったのでは? 或いは、田舎から大都市へ、第三世界から先進国への労働力の移動。それも〈経済格差〉という問題には(勿論それは重要であるが)還元することができない。田舎や自国では「現勢化」されない〈ほんとうの自分〉が大都市や先進国でなら見つかるかもしれないと信じ、決して低くないリスクを冒し、故郷を後にする。勿論、「自分探し」が煽られることによって消費が増大し、資本主義経済は持続するわけだし、大都市や先進国の企業は「自分探し」のパッションを搾取することによって安価な労働力を確保しているわけだから、この意味で「自分探し」というのは現行の生産様式を維持し、しかもそのからくりを隠蔽する「イデオロギー」であるということはできるだろう。ただし、そうした「自分探し」を虚偽意識と言い捨てるような左翼気取りの外在的批判は無効ではあるが。
「私」探しゲーム―欲望私民社会論 (ちくま学芸文庫)

「私」探しゲーム―欲望私民社会論 (ちくま学芸文庫)

しかし、内田氏の言説によれば、「自分探し」とは最早そういうものではない。これって、昔からよくいわれてきた〈母胎回帰願望〉と同じなのだろうか。しかしながら、そこでは自己意識は存在しないので、探す対象としての「自分」は存在するかもしれないが、探す主体としての「自分」は存在せず、「自分探し」としての〈母胎回帰〉は不可能である。或いは〈母胎〉からさらに遡って、〈前世〉へ? ともかく、今時の「自分探し」というのはよくわからない。