7月13日、酒井潔『自我の哲学史』(講談社現代新書)を読了する。
帯には「日本人に自我はいらない!」という惹句が踊っている。
本書はタイトルのとおり、「自我」を巡る哲学的言説の歩みを歴史的に辿るという側面がある。扱われているのは、デカルトに始まって、カント、フィヒテ、フッサール、ヘーゲル、ライプニッツ、キルケゴール、ニーチェ、ハイデガー、ヤスパース、ブーバー、レヴィナス、ディルタイ、ポパーであり、本邦においては宮沢賢治、西田幾多郎、夏目漱石の思想が取り上げられている。他方で本書を特徴づけているのは、そうした哲学史的考察を踏まえての「日本人に自我はいらない!」という主張・提言であろう。
本書を読む上で注意しなければならないことは、著者が「自我」と「自己」を取り敢えずは厳密に区別していることである。曰く、
まず「自我」とはラテン語のego、英語のI、ドイツ語のIch、フランス語のmoi等に対応する語であり、また概念である。それは、意志や行為の主体、文の主語(「私は学生である」、「私は歩く」)を意味する(p.29)。
また、「十九世紀中頃にキルケゴールによって、「自己」(selbst)が初めて主題として問われるようになるが、
これに対して「自己」は、ラテン語のipsum、英語のself、ドイツ語のSelbst、フランス語のsoiに対応し、自我によって知られたり、自我から何かの作用を受けたりするかぎりでの自我を言う。つまり自我それ自身が認識や意志・行為の対象として、文の目的語と見られるとき、それは「自我」と呼ばれる。そして主体的、主語的な自我とは区別されるのである。言いかえれば、「私が私を何々する」、「私が私に何々する」、という再帰的、反省的な係わり合いそのものを自己という(p.30)。
ということである。成る程、こうして見ると、例えばミード流のI/Meの区別というのは、伝統的でヴァナキュラーに埋め込まれたego/selfの対立の変奏なのだなと思ったりするが、よく考えてみると、この「自我」/「自己」の区別こそ、本書の論旨をひっくり返してしまうような〈罠〉であるのだ。
キルケゴールにおいては、単独でかけがいのない自我は、デカルトのように思惟実体でもなく、カントのように超越論的自我、もしくは道徳的意志でもない。キルケゴールは自我を主体や主語の側にではなく、むしろ私が私に関わるその関係の側に見出そうとする。自我はもはや何か有るものというよりは、そのつど「私が私へ」関係する活動自体を意味する。かくして自我は「自己」Selbstという概念のもとに考察されることになる。自我から自己へのこの転回こそ、二十世紀の実存主義の先駆とみられるのである(p.31)。
それはさておき、著者の哲学史的考察の帰結は、「われわれが通常、社会生活で是とする自我概念は、基本的には西洋近世の自我概念の上に成り立っており、日本人は近代化においてそれを受容した」(p.6)ということである。また、ハイデガーを念頭に置いて、
と述べている。また、「現代哲学においては、ポストモダン的な、脱構築的な「自我」*1を構築する可能性について言及されることがあるかもしれない」と述べるが、これについては、「それは言うに易く、実際にはなかなか容易なことではない」(p.152)というのみである*2。また、ブーバーやレヴィナスの「呼びかけられる」(p.146)「自我」についても、その哲学史的な意味について詳述はされていない。
「近代」のそれとは別の「自我」概念が提起されているような場合でも、よく見ると、そこには近世自我論の理性主義的な伝統が、やはりさまざまな仕方で浸透している。つまり自我は、理性によって理解可能なものとして了解されているのであって、けっしてわけのわからぬもの、不気味なものとは見られていない。理解可能な自我とは、連続的、同一的な自我である。非連続の、そして非同一的な自我をわれわれは実際には認識することなどできない。ましてそのような自我をもって社会生活は営めないだろう(pp.151-152)。
さて、近世(近代)の「連続的、同一的な自我」概念に対置されるのが、日本的な心性、或いはヨーロッパの伝統社会的な心性である。例えば、曰く、
或いは「風景やみんなといっしょに/せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける/因果交流電燈の/ひとつの青い照明」としての宮沢賢治的自我。
近代以前には人々は、今日のように「自我」が交換不可能な絶対唯一性を意味するとは、必ずしも考えなかった。もちろん、「私」という観念はあったし、「私」と「あなた」、あるいは「私」と彼または彼女の区別も知られないわけはなかったであろう。しかしその「私」はまだそんなに厳密な概念ではなかった。「個人」(individual)という概念は、近代以前の社会ではまだ明確には意識されていなかったといえよう。
まして「同一性」について人々は今日ほど無条件に価値を置いてはいなかった。(略)
しかしそのような厳密な同一性のもとに自我を解するようになったのは、じつは近世に入ってからのことである。それまでの長い間人々は、「同一人として解された自我」という概念をとくに意識することなしに生活していた。その結果として、人が別人にすりかわったりすることは珍しいことではなかったのである。(略)(pp.203-204)
さて、本書で示される著者の危機認識は納得できるものである。例えば、社会の〈心理学化〉について;
またさらに、
今日の社会では、個人の発言や行動のその意味を解釈しようという場合、えてして当の個人の「心の」要因を探ろうとする。つまり個人の側の心理学的な要因を詮索し過ぎるのではないだろうか。この傾向はそもそも一九六〇年代アメリカの、カウンセリングのブームから来ている。(略)
(略)個人の心の内部や過去に原因を求めようとする「心理学化」の姿勢は、個人の不幸や悩みの責任は自分自身にあるという「自己責任」論にもつながる。そして「自己責任」論は「癒し」願望を生じやすいのである(pp.10-11)。
或いは、
しかし考えてみると、このような自己責任論はけっして弱者のほうからは出てこない。むしろ強者の論理といえなくもない。そして弱者は自らを責め、無力感に苛まれ、自虐的に諦める。もし失敗者がやり直せるような、リベンジできるような、そして社会復帰できるような道筋が十分確立しないまま、自己責任論だけがますます標榜されるとするなら、めいめいの自我は一層攻撃され、打ちのめされるに違いない。そのような予感や気分が社会のあちこちに、忍び寄る霧のようにたなびいている。だからこそ、誰もが陰に陽に「何よりも自分の心が癒されることを願う」という一種の全体的気分、すなわり癒しブームがこの社会の中でますます醸成されてくるのではないだろうか(pp.12-13)。
前近代社会は「偽者にもそれなりに居場所があるような社会」(p.211)ということになる*3。
近代社会の価値観では、ニセモノというだけで、人格や能力を問わず、悪者である。オリジナルや独創性がもてはやされるのに対し、イミテーションや模倣は、それだけで中身や効果はどうであれ、頭ごなしに否定されるのが普通である。人間だけでなく、物、作品、文化などすべてがそうだ。真偽が価値に直結することは、骨董品や芸術作品等の鑑定が端的に示している。真偽について多かれ少なかれ潔癖性なのが近代人の特徴だろう。
しかし近代以前の人々は、「偽」ということに対して、そう頑なでも拒否的でもなかった。(後略)(pp.210-211)
しかし、著者の、
という〈提言〉は如何なものか*4。そんなことは可能なのだろうか。「自己」を使い分けろということだろうけれど、ということは「自己」を使い分ける「自我」(主体)の存在が前提になる。それも場面場面で演じられる現象的自己に対して距離を保ちつつ、適切且つ厳格に自己の現れを管理する相当に強い主体が。そもそも現代人は、煩雑化した主体の自己管理に疲れて、主体の自己管理の外注化として、弁護士やらサイコロジストやらカルト教団やらが社会的に要請されているのではなかったか。
われわれは夕方五時の勤務時間までは(中略)一応は公共社会にいると考えられるから、これの構成単位である「自我」としてふるまう。そして終業後、アフター・ファイブになれば、会社=公共社会から離脱する。帰宅したらスーツを脱ぎ。「自我」の仮面を外すのである(p.249)。
私たちは(著者のいう意味での)「自我」からは逃れることはできないだろう。どのような社会でも「自我」は機能していた(している)筈である。しかし、近代以外の社会においては、〈自分探し〉という嗜癖は作動していなかった。仮令作動しかけたとしても、〈伝統〉がやんわりとそれを抑止した筈である。また、〈自分探し〉はそもそも不可能であり、常に既に挫折を運命づけられている*5。何故なら、「自我」は定義上、現前不可能であり、従って認識不可能であるからだ。著者による「自我」と「自己」の区別を思い出してみよう。「自我」自身によって関係された限りにおける「自我」を「自己」というわけだが、だとすると、「自我」はそれが(概念であれ、イメージであれ)顕在化した途端、「自我」ではなくなってしまう。それは「自我」それ自体ではなく、せいぜいその一様態としての「自己」である。常に逃れ難く機能しているのにも関わらず、絶対的に現前不可能で従って捕捉不可能。思えば、デカルト以降の近代哲学は厄介なものを発見してしまったということになる。
なお、著者はライプニッツの専門家であり、本書でもライプニッツへの言及は詳細である。これだけでも、読む価値ありといえるだろう。
前回に続いて、倫敦のテロへの反応を読んでみる。
Robert McCrum
"If you didn't board that bus, thank Lady Luck"
McCrum氏は、
という。何しろ、家を出るのが数分早かったか遅かったか、電車やバスが1本早かったか遅かったかが、(最悪の場合)生死を分けたからだ。古代ギリシア人の知恵によれば、
Fate, like love, is all around us. Everyday life in an age of terror is composed of thousands of life-and-death decisions. It takes a terror attack to remind us how contingent life can be. Behind the millions of email and phone messages on Thursday was the force of destiny. Just for a moment, we were brutally pitched back into the world of our ancestors. There, matters of life and death were a familiar part of everyday life.
ということになる。しかし、(ヴィクトリア朝以降の)私たちには"a fantasy of self-determination"があり、「運命」は解雇されたかのようである。さらに、
To the Greeks, your destiny was in the hands of the Fates, three heartless old women. Clotho would spin the thread of your life, Lachesis measure it out and Atropos, with her inexorable shears, would settle your hash with a snip. In this rendering of existence, the best you could do was make the most of the present (carpe diem) and accept your fate with dignity and stoicism. 'A man should be ready for the journey to the world below,' said Socrates, 'ready to go when the Fates call him.'
fateではなくてluck。
Not only have the Fates been downsized, but we have secularised their ominous dread into luck. One fortunate survivor who happened to shun his regular carriage (the one with the bomb) on the Piccadilly Line told the BBC: 'I just feel incredibly lucky.'
また、chanceというのもある。何れにせよ、これらは"an immutable part of the human condition"である。
Like Plato, students of luck have become obsessed by numbers. Almost everyone has a lucky number. Another old proverb speaks of 'luck in odd numbers'. Unlike those implacable old women with scissors and thread, luck is a lady. Luck is someone to flirt with, even seduce.
Nick Cohen"Face up to the truth"は、「イスラーム主義」に甘くブッシュやブレア(つまり「西側」)に厳しい左派やリベラルの〈欺瞞〉若しくは矛盾を非難する。例えば、
Cohen氏が「イスラーム主義」を"a reactionary movement as great as fascism"と呼ぶのはけっして間違ってはいない。しかし、いくらそれが"an autonomous psychopathic force with reasons of its own"であるとはいっても、その生成発展の背景、(不幸にも)一定の共感や支持を集めている背景に言及しなければ、逆に帰結として、人種主義やムスリムへのバッシングを擁護してしまうというのではないか。また、その「背景」にこそ、「西側」が関わっているといえる。また、「イスラーム主義」を責めるのが先かブレアやブッシュを責めるのが先かというのは〈優先順位〉の問題であり、けっして二者択一的な対立ではあり得ないだろう。
But it's a parochial line of reasoning to suppose that all bad, or all good, comes from the West - and a racist one to boot. The unavoidable consequence is that you must refuse to support democrats, liberals, feminists and socialists in the Arab world and Iran who are the victims of Islamism in its Sunni and Shia guises because you are too compromised to condemn their persecutors.
それに対して、必ずしも倫敦のテロ事件を主題としてはいない、Will Hutton"The champion of Gleneagles"は、過去20年間のIMF主導の新自由主義政策と「イスラーム的テロリズムの出現」との相関関係を主張している。
また、Cohen氏が非難する「リベラル」であるが、Mary Riddell"Liberty must never become history"を読むと、ここで試されているのは、寧ろ「西側」の〈原理(principle)〉なのである。だから、Cohen氏とは論点が噛み合わないともいえるし、Cohen氏もMary Riddell氏の論には賛同せざるをえないのではないか。