常に/既に選択している(不選択を選択している)

http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20080522/1211444127


トリアージ」が大流行? 「トリアージ」という言葉が一般的に使われるようになったのは2005年の福知山線脱線事故を契機にしてか。「トリアージ」という実践が要請されるのはたしかに大災害のような例外的な緊急事態においてであろう。しかし、そういうことというのは、それ以前から意識的かどうかを問わず行なわれていたのだろうと思う。さらに、これは(世界内存在としての)私たちの在り方の根幹に関わっているともいえよう。例えば、私たちの行為が自由であるとしたら、私たちは常に行為に際して選択を行なっていることになる。私がAという行為をするとき、私は常に/既にAをしない、A以外のBやCをするという選択肢からそれらを切り捨てて、Aをしているわけだ。また、「世界時間(world time)」の超越性ということもある*1。こちらの方が「トリアージ」には直接繋がるのだろう。「世界時間」の超越性から導かれることのひとつは、一度に多くのことはできないということであり、これによって「待つ(to wait)」という所作が基礎付けられる。勿論、常に/既に何らかの選択肢を切り捨てているということを、私たちはいつも気にしているわけではない。その理由の一つは、「待つ」ということによって時間的に先送りされているということがあるかと思う。反対に、普段は気にならない選択(或いは不選択)という問題が一気に前面化(全面化)するのが緊急事態であろう。そこにおいては、「待つ」ことはできない。だから、「トリアージ」を「ホロコースト」に一挙に繋げること*2はできないが、Apemanさんが指摘するように*3、両者はやはり繋がっている。全体主義は一方では世界内存在としての私たちの存立条件を切り崩してしまうとともに、他方では世界内存在としての私たちを超えることはできないという意味で。
あと、幾つか。
合理性ということだけに話を限定しても、わざわざマックス・ウェーバーを繙くまでもなく、行為の合理性には目的合理性のほかに少なくとも価値合理性があり、もし合理性を「全体や組織から見た最適」に限定しているとすれば、それは社会学的には不適切であり、或るバイアスがかかっていると謗られても仕方がないことになる。


しかし、トリアージの現場というのは、例えばトリアージ判定員の家族が運ばれてきても「これは処置不可能」「こちらにリソース投入すれば助かる」と判定しなければならない状況もあるわけだ。家族を見捨てても多くを救う、これは“正しい判断”だよ。確かに。だが、同時に“かわいそう”でもある。そのギリギリの選択と覚悟こそがトリアージの本質なのであって、“自動的に”リソース配分の最適化、なんて話とはわけが違う。割り切った行動と割り切れない感情の相克こそが重要なのであり、その違和感を大事にする事が、トリアージを要求しなくてすむかもしれない次を生むのだ。

つまり災害で云えば、罹災者を減らすであるとか、全員に充分に割けるリソースの確保であるとかなわけだ。

トリアージが割り切れない感情の異議申し立てを拒絶するとなれば、改善の動機付けは期待できなくなるだろう。
http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20080527/1211878137

という意見あり。これは勿論正しいわけだが、これを「割り切った行動と割り切れない感情」という方向でのみ考えるのはよろしくないだろう。理性と感情の対立ではないのだ。「割り切れない」ことに関しては、Bonnie HonigのPolitical Theory and the Displacement of Politics*4を参照いただくとして、問題なのは寧ろ私たちの前には色々な意味での〈正しいこと〉が過剰に溢れているということだろう。その重層的な〈正しいこと〉を前にして、例えば伯夷と淑斉のように*5戸惑わざるを得ない。また、具体的に何か行為をするということは、それら数多ある〈正しいこと〉から1つだけを選択し、その他を切り捨てる(選択しない)ということなのである。ここでは、デリダの『死を与える』に触れて、高橋哲哉氏が

私はある他者の呼びかけに応えることで、他の他者たちの呼びかけに応えられなくなってしまう。私は他の他者たちを犠牲にせずには、どんな他者への責任を果たすこともできない。いま私が犠牲にしている他者たちへの責任を果たそうとすれば、今度は必然的に、他の他者たちへの責任を犠牲にすることになるだろう。デリダによれば、私はこの犠牲を正当化する(justifier[正義とする])ことはけっしてできない。「私があるもの(ある他者)を他者に優先させたり、あるもの(ある他者)を他者の犠牲にしたりすることはけっして正当化できないだろう」。(『デリダ 脱構築』、p.237)
と述べているのを引くにとどめる。
Political Theory and the Displacement of Politics (Contestations)

Political Theory and the Displacement of Politics (Contestations)

死を与える (ちくま学芸文庫)

死を与える (ちくま学芸文庫)

デリダ―脱構築 (現代思想の冒険者たち)

デリダ―脱構築 (現代思想の冒険者たち)

さて、三宅氏に対して、「あなたの最大の問題点は、「全体」や「組織」に対するナイーブな信仰です」という批判あり*6。この批判自体は妥当であるといえるが、実はこの批判は批判を発した人にも再帰する性質のものであるともいえる。例えば、教室の光景を「階級対立」であると断じることができる特権的な位置についてどう考えているのかとか。さらにいえば、「「全体」や「組織」に対するナイーブな信仰」というのは、アレント流にいえば、〈マルクス主義的バイアス〉といえるだろう。マルクスは〈見えざる手〉というアダム・スミスら古典派経済学の仮定をベタに信じてしまったのだ(『人間の条件』、pp.43-44)。また、「「全体」や「組織」に対するナイーブな信仰」への批判から、アレントにおける「不偏性(impartiality)」の問題、(究極的には不可能であるにも拘わらず)それを獲得するに想像力でもって他者を「訪問すること(go visiting)」について言及しようと思ったが、余裕がないので、ただ『カント政治哲学講義』とLisa Jane Disch Hannah Arendt and the Limits of Philosophyを指示するだけにする。また、「全体」云々の問題については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080215/1203101413をマークしておく。
The Human Condition

The Human Condition

カント政治哲学の講義 (叢書・ウニベルシタス)

カント政治哲学の講義 (叢書・ウニベルシタス)

Hannah Arendt and the Limits of Philosophy: With a New Preface (Cornell Paperbacks)

Hannah Arendt and the Limits of Philosophy: With a New Preface (Cornell Paperbacks)

*1:「世界時間」の超越性については、。Alfred Schutz & Thomas Luckmann The Structure of the Life-World, p.45ff.を参照されたい。

Structures of the Life-World (Studies in Phenomenology and Existential Philosophy)

Structures of the Life-World (Studies in Phenomenology and Existential Philosophy)

*2:See eg. http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080523/p1

*3:http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20080529/p1

*4:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070325/1174818827 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071024/1193246772 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080216/1203142535

*5:Cf. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070418/1176911089

*6:http://d.hatena.ne.jp/toled/20080523#c1211587565