CFSその他

 前回の日記は6月8日付けになっているのだけど、実は本日(6月17日)にアップロードしたもの。つまり、かなり時間が経ってしまったわけだ。
 この間、妻は再び上海に戻り、束の間の夫婦再会は終わり、一抹の寂しさは拭えないのだが、いつの間にか6月も中旬になり、Cultural Studies Forumでの報告も間近になってしまった。というわけで、


Cultural Studies Forum (CSF) 6月例会のご案内

*日時: 6月25日 15:00〜
*会場: 武蔵大学7号館3階 7309 社会学部実習室3
   最寄り駅西武池袋線江古田駅西武有楽町線新桜台駅、地下鉄大江戸線
  新江古田駅 (詳細は〈http://www.musashi.ac.jp/03-02.html〉) 

*題目: 自己という獄屋−−〈スピリチュアリティ〉を超えて
*報告者: 角田幹夫 (無所属、専攻:社会理論、宗教社会学、文化社会学
  ディスカッサント: 未定
 
*要旨 
 本報告では、現代社会における〈自己〉や〈心〉の焦点化と広い意味での〈宗教〉
との関係を概括的に論ずることを試みてみたい。
以下のような議論を予定している。
 まず、理論的前提として、ハンナ・アレントのテクストから、
  世界→自己
という近代的主観主義の構図を摘出する。また、ピーター・バーガーのテクストか
ら、近代における宗教にも同様の構図が当てはまることを示す。大雑把にいえば、
「主観主義」は、私たちを〈自己〉へと閉じこめ、世界の客観性の喪失、意味の喪
失、それによる無限の再帰性という困難をもたらす。次いで、ポストフォーディズム
新自由主義に言及し、そこで起こっている事態が、〈脱近代〉やポストモダンとい
うことよりも、〈自己〉の在り方においても、〈近代の徹底化〉にほかならないこと
を示す。さらに、ポストフォーディズム新自由主義の下で、〈選択〉や〈自己責
任〉の強調とともに進行する〈社会の心理学化〉に対する広い意味での〈宗教〉の多
義的な関係を示し、さらに出来うれば、それに対抗する〈超越〉と〈宗教〉の可能性
についても論及したい。

*推薦参考文献
 角田幹夫「孤独と近代−−「収用」と自己という獄屋−−」
     社会科学基礎論研究会編『現代社会と〈宗教〉の鏡』(年報社会科学基礎
論研究4)
 アレント全体主義の起源みすず書房
     『人間の条件』ちくま学芸文庫
 樫尾直樹編『スピリチュアリティを生きる』せりか書房
 伊藤・樫尾・弓山編『スピリチュアリティ社会学世界思想社

ということです。
 基本的には、「孤独と近代」をリミックスしつつ、新音源も加えるという仕方で報告するつもり。というわけで、これから来週にかけては、報告の準備のために更新がまた滞る可能性は大いにあり。


 6月8日から16日までの間、

 アール・オファリ・ハッチンソン『ゆがんだ黒人イメージとアメリカ社会』明石書店、1998
 大山誠一『聖徳太子と日本人』角川文庫
 青木人志『「大岡裁き」の法意識』光文社新書
 海老坂武『サルトル岩波新書

を読了。


 ところで、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050603で、Deyan Sudjic氏のエッセイを紹介したけれど、ニューヨークのWTC跡の「フリーダム・タワー」を中心とした〈高層ビル〉ネタのリンクがhttp://d.hatena.ne.jp/yugi713/20050609に。