kmizusawaさんの「個人的なことは政治的なこと」*1から、少し長い引用をする;
これを読むと、ハンナおばさんが『人間の条件』で論じた「社会の勃興」という問題系、さらには、『革命について』で論じた〈憐憫というテロル〉という問題系が、現在も、いや現在においてこそ、時務にとってレリヴァントであることがわかる。ところで、kmizusawaさんはこうしたことどもを「政治的」とおっしゃっている。しかし、ハンナおばさんの視点からすれば、ここにおいては政治は消滅している。事実、ここでは、万事は政治の問題ではなく、教育或いは(パラメディカルも含めた)医療の問題でしかないからだ。さらに、ここで行使される暴力は再帰的なものとなる。「マスコミや政府の御用学者たち」だって、国民の皆様、すなわち我々のために/名において介入を行っているからだ。介入の理由も究極的には、皆様のご希望だからというものになるだろう。だから、この社会は自傷的社会でもあるのだ。
どんな生き方するかとか何を食べるかとか恋愛するかしないかとか性格だとかコミュニケーション能力だとか「やる気」だとか身だしなみとか健康管理とかどこに住むかとか子ども生むとか生まないとか…そういった本来「そりゃー社会のあり方の影響も受けているかもしらんが人それぞれでいいも悪いもないだろう」(そしてどんな選択であっても幸せに生きていける社会がベスト)と思うようなことに対して、マスコミや政府の御用学者たちが「皆が幸せな社会を作っていくためにも(もしくは個人が幸せであるためにも)こうあるべき理想の姿」というのを出して、そうでない人に対して「援助」とか「アドバイス」とか「指導」とかいう名目であれやこれやと介入する。彼らが提供してくる「理想」はそれ自体は決して「悪い」ものではないが、「悪い」ものではないだけに、個々の「援助」に関わる人には悪気がないどころか善意に溢れていたりするのがやっかいだ。個人的なことは政治的…じゃなかった「社会的」なこと? 皆でニートや「働きすぎ」の人や外見に難のある人や朝ごはんを食べない人や肥満の人や公園で寝ている人や障害者の行くべきところや子どもの生活時間や既婚女性の人生選択(←援助しますから働きながら子ども生んでくださいってやつ)に介入する。それは「個人の問題」ではなくすでに「社会の問題」です、ってか?
そのくせその「介入」の仕方は常に「個人の意識」を活性化するような介入の仕方で。環境の改善が少しは行われるとしても、コストやなんかを理由にたいてい行き当たりばったり。それはフェミニズムが行った、個人的と思われていた事柄の社会化(社会のあり方やシステムの問題のあらわれとして考える)とはぜんぜん違うことだ。個人的なことに見えても社会的なことだから個人は社会をよくするために協力すべし、という新たなテーゼ。昔から「国家」や共同体が個人の生き方に介入するっていうのはあったけど、それを「社会的な課題」と言い替えることで真面目な人に自ら考えたり協力したりする気にさせるっていうか…いや、昔からそうなのか。現代的な衣をまとって復活してるんだな。セクハラやDVですら法整備ができてくると共にあとは「加害者の未熟な人格」レベルの問題にされちゃってるような気がする。少なくともマスコミレベルではそうだろう。