ドキュドラマは何処行った?

水島宏明*1「TBSの「やらせ」は重大な倫理違反! 民放連会長は自ら襟をただしてほしい!」http://bylines.news.yahoo.co.jp/mizushimahiroaki/20150215-00043044/


TBSの「水トク!激闘大家族スペシャル 17歳で産んだ我が娘が17歳でまさかの妊娠・・・」という番組における「やらせ」を巡って。この番組を視ていないので、この番組、「やらせ」(「不適切な演出」)についてのTBS側の釈明、両者に対する水島氏の批判に対して、何かを言う資格は私にはない。
ただ、不図思ったことは、最近ドキュラマという言葉をあまり聞かないなということ。ドキュメンタリー+ドラマ。最近言及した野口英世の伝記ドラマ『野口英世伝 光は東方より』*2はこのドキュラマで、ドキュメンタリー部分のレポーターを伊丹十三が務めていた。これに限らず、1970年代にテレビマン・ユニオン*3はドキュラマの実験を、ここで批判されているTBSを舞台に行っていた筈なのだ。
「決定的な場面にカメラスタッフが居合わせることができなかった」場合にどうすべきかという問題。水島氏は安易に「再現」をするなと批判する。ところで、映像表現には(言語表現)と違って、過去形はない*4。フィクションであれノンフィクションであれ、映像表現を経験するというのは現在の連鎖を経験するということだ。「決定的な場面」が撮れなかった。それは現在の連鎖に穴が開くこと。「やらせ」的な「再現」というのはその穴を姑息な仕方で隠蔽してしまうことだろう。しかし、フラットな現在の連続が破綻することによって却って、映像表現は厚みのある重層的な時間を獲得できるのではないか。或いは、映像における再帰性の獲得。そのためにはどうすべきかを議論すべきなのではないか。
さて、「激闘大家族スペシャル 17歳で産んだ我が娘が17歳でまさかの妊娠・・・」とかって、ドキュメンタリーというよりもDQNメンタリーともいうべきジャンルですよね。そういうのって、かなり以前にも採り上げたことがあるのだけれど*5、何故日本のTV制作者や視聴者はDQNメンタリーが好きなのかということの方が不思議ではある。寧ろそれをテーマにドキュメンタリーが作られるべきであろう。