『ありえない日本語』その他

Jonathan Freedland
"After the aftershock"

 この13日付けの論評で、Freedland氏は、7日のテロが"the first suicide bombing on British soil"であることを先ず強調する。それは(テロ一般とは区別された)「独特な脅威」を表しているという−−an enemy that does not fear being captured or killed is always bound to be more potentということである。さらに、


More deeply, these men will have hoped their deaths will endure. One detail was striking in yesterday's police briefing: it was that property identifying the men was found in each location, including items belonging to one man found at both Aldgate and Edgware Road stations. That cannot have been an accident. It suggests these killers wanted their names to be known; they were proud of what they did.

It is hardly a surprise. For the suicide bomber aims to be a martyr, his face burned on to a thousand webpages, his action a model to be emulated. Who knows, perhaps a video - like those released by the men of Hamas and Islamic Jihad - is waiting to be found in one of those Leeds homes. The danger here is the process which represents al-Qaida's modus operandi, with one outrage inspiring others.

という。この指摘はユニークだと思った。Tariq Ali氏はこのテロの〈匿名性〉を指摘していた(cf. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050713)。しかし、Freedland氏は"these killers wanted their names to be known"と述べている。また、「ハマス」の例が挙げられているが、イスラエルパレスティナ)で行われる自爆テロは見知ったコミュニティを観衆として行われる。つまり、組織の匿名的な部品として振る舞うのではなく、見知ったコミュニティに見守られて、コミュニティの英雄になるべく自爆テロが行われるというわけだ*1。その点で、同じ自爆テロと呼ばれているにもかかわらず、9/11などとは本質を異にしているのではないかと思ってきた*2。ということは、7/7のテロリストたちは自らが呼びかける具体的なコミュニティを前提としていたということだ。これは、次の、彼らが英国で生まれ・育ったということに繋がっている。もし〈外人〉だったら、「外部からの侵入」ということで慰みにもなるだろうし、出入国管理を厳格にするとかそれなりの対策だってある。しかし、テロリストが「英国市民」だとしたら、

We could shut out every last asylum seeker, expel every illegal immigrant, and it would make us no safer. This attack came from within
ということである。英国のムスリムは、「集合的罪」などないにもかかわらず、その重荷を既に背負ってしまっている。自らに対する「スティグマ化」とともに(身内の)「極端主義者」とも対峙していかなければならない。Freedland氏は、そうした「重荷」はムスリムにのみ降りかかるものではないという。The realisation that Britons are ready to bomb their fellow citizens is a challenge to the whole of our society.

 Freedland氏は、ムスリムの若者が「極端主義」に走る背景として、disconnectionとdisenfranchisementを挙げているが、さらにその根源を理解するためには、例えばSalma Yaqoob氏の意見に耳を傾けるべきだろう。何度か述べてきたように、「不正義」の問題に行き着く。ブレアが今回のテロを「イスラームの曲解」と評したことへのコメントとして、Yaqoob氏は「文脈化」の欠如をいう。さらに、


Moreover, as British Muslims we must brace ourselves for a backlash - coming not from ordinary people, but from the need of politicians to deflect attention from their own role in this tragedy.

Because what is undeniable is that the shoddy theology - no matter how "unIslamic" and easily condemned by most Muslims - is driven by political injustices. It is the boiling anger and hurt that is shaping the interpretation of religious texts into such grotesque distortions. Such extreme interpretations exist only in specific political circumstances - they certainly do not predate them, and the religious/political equation breaks down if there is no injustice to drive it.

This leaves British Muslims in a very difficult place. To bring in these wider questions requires them to dissent from the government line. This is difficult for them, keen as they are to avoid further marginalisation. However, if Muslim leaders succumb to the pres sure of censorship and fail to visibly oppose the government on certain foreign policy issues, the gap between the leaders and those they seek to represent and influence will widen, increasing the possibility of more dangerous routes being adopted by the disillusioned.

This cycle of violence has to be broken. By confining analysis to simple religious terms, however, politicians are asking the impossible of our security services as well as Muslim leaders. No number of sniffer dogs or sermons denouncing the use of violence against innocents can detect and remove the pain and anger that drives extremists to their terrible acts. The truth is that shoddy theology does not exist without a dodgy foreign policy.

 Yaqoob氏は英国の"a dodgy foreign policy"に言及しているが、Mundher al-Adhami氏によれば、今回のテロは(ブレアがいうように)英国的価値観やライフ・スタイルへの「憎悪」などではなく、端的に"straightforward revenge: revenge for Falluja and al-Qaim - and for Palestine and Afghanistan, which have been subsumed in them"であるという。


The pictures of Iraq, Afghanistan or Palestine, with their dust and grime, might be different to the pictures of the London bombs, but they represent a continuity. The war of revenge and collective punishment has arrived in London. And it has its own rationality. Don't give me the nonsense about why do they hate us. They don't.
その"its own rationality"とは例えば、"your security is only assured if ours is. If our women and children are killed, then your women and children are killed."ということである。

The policies of Bush and Blair have made life much more dangerous for all of us. Muslims in London are as much victims of atrocities as in Iraq, Afghanistan and Palestine. And, as happened after September 11, those back home phone, worrying about us here - because of the bombs as much as a racist backlash.

The British public have deep sympathy and understanding of the folly of the Iraq war, and will not condone any backlash. On the other hand, they have not yet made their mark as the people of Spain and others did, forcing their governments to withdraw from Bush's evil "coalition of the willing". And they should.

 勿論、イラク問題は重要なファクターだろうけど、すべてそれに還元できるわけではあるまいということで、Mundher al-Adhami氏の意見には留保をつけたいとは思うが、"The policies of Bush and Blair have made life much more dangerous for all of us."ということはたしかだろう。当然、このusというのは〈英国人〉だけではないだろう。

 7月18日、秋月高太郎『ありえない日本語』ちくま新書を読了する。この本は例えば「ありえない」とか「やばい」とか「なにげに」といった、所謂世間的には〈乱れている〉と嘆かれている〈若者〉を中心とした日本語表現を言語学的に救済する本といえるだろう。つまり、これらは決して出鱈目なのではなく、話し手・書き手にとってはそれなりに必然性を持っており、それ自体として秩序を構成しているというわけだ。それを明らかにするために、言語学の様々な分野の知見が援用されている。特に目を引くのは、言葉を(相互)行為の一部として捉える語用論的な視点(これは寧ろ社会学的ともいえる)だろうか。また、例えば「「よろしかったでしょうか」はなぜ「丁寧」か」(5章)、「愛の告白の言語学−−「つきあってください」と「ごめんなさい」」(9章)は、(森真一氏がいうような意味での)社会の心理学化或いは「人格崇拝」との関連で面白かった。
 ところで、4章で取り上げられている「〜じゃないですか」というのは世間的にはすごく評判が悪いらしい。「〜じゃないですか」という表現は「話し手と聞き手が共有する情報を、聞き手に思い出させる働きをする」という(p.110)。従って、「〜じゃないですか」に対する不快感は、その「前提となる共通知識の見積もりに対する不快感や違和感」であり、その「批判的なニュアンス*3から生じる不快感や違和感」ということになる(p.103)。川口良、角田史幸「「正統な日本語」は存在するのか」(『本郷』58)によれば、「私ってコーヒーが好きじゃないですか」という表現について、米川明彦は「相手との情報・知識の共有を前提とせずに、いきなり使用し、かつ同意や共感を一方的に求める」ので、「「自己チュー」の世の風潮を表した表現」なのだといっているという(p.30に引用)。それに対して、川口らは、


話し手の個人的な事柄に「〜じゃないですか」を使うことによって、聞き手もすでに知っているという状況が設定され、「疑似」共有知識が作り出される。それによって、たとえ初対面の相手であっても、あたかも以前から知り合いであったような親近感に満ちた場が形成されるのだ、と。とすれば、「私ってコーヒーが好きじゃないですか」は、実は、相手との親近感を高めようとする一種の敬意表現とも言える。つまり、敬意表現の機能そのものが、従来の「敬して遠ざける」ものから「親近感を高め相手に近づこうとする」ものへと変わりつつあるのである(ibid.)。
と〈弁護〉を試みている。それはそうなのだけれど、別の視点から考えてみたい。「〜じゃないですか」に限らず、(言語的)コミュニケーションというのは、つねに/すでに「相手との情報・知識の共有」を事前に見込まなければ開始することができない。例えば、相手が日本語が理解するかどうかというのは決して自明なことではない。にもかかわらず、取り敢えず相手が日本語を理解するということを(勝手に)前提として話しかけなければコミュニケーションは開始することはできない。多分、そのような状況に置かれた(例えば)中国人や仏蘭西人は「相手との情報・知識の共有を前提とせずに、いきなり使用し、かつ同意や共感を一方的に求める」とむかつくことだろう。さらに、〈社会化〉ということを考えてみよう。〈社会〉のメンバーとして迎え入れるということ。それは知識を共有していない(ことがわかっている)相手をあたかも〈共有〉しているものと扱うことによって達成される。メンバーシップを獲得しようとする新参者は、古参者のそのような扱いに対して、その古参者の振る舞いをまねることによって、それを馴染ませようとする。これが学び=まねびであって、まねていることを忘却するほどそれがよく馴染んだとき、メンバーシップは主観的にも客観的にも確定するといえるだろう。私たちは誰も母語をそのようにして習得した筈である。とすると、「〜じゃないですか」というのは、新たな社会化或いは学習への招待なのだといえる。であれば、「〜じゃないですか」に不快感を感じる奴というのは、基本的に〈学習する〉ことが嫌いな怠け者だといえるし、或いは〈自分は教える立場であって、教えられる筋合いはない〉というかなり「自己チュー」な世界観を持っているともいえる。或いは〈驚き〉が快楽ではなく苦痛でしかないような小心な奴。しかしながら、これは「〜じゃないですか」を嘆く〈大人〉だけの問題ではないだろう。このような属性は嘆かれる側の〈若者〉にも確実にあって、その意味では〈どっちもどっち〉といえる。これは〈大衆社会〉の通弊なのであって、〈若者〉だって立派に〈大衆〉だからだ。かくして、例えば教師は〈わかりやすく〉〈サルにもわかるように〉教えることが期待され、〈馬鹿への配慮〉の過剰が社会をますますうざいものにしてゆくというわけだ*4


 19日早朝、BSでジョン・ランディス監督の『ブルース・ブラザーズ』を観る。1980年に公開されたときの『ニューヨーク・タイムズ』のレヴューではかなり酷評されていたようだけれど、プリミティヴな〈活動写真〉としての面白さに満ちているのは事実である。なお、ジョン・ベルーシに捨てられたルサンティマンからテロリスト並みの破壊活動を繰り返すキャリー・フィッシャーの快演もほどよいスパイスとなっている*5。時代の違いもあるかもしれないけれど、この映画で描かれたシカゴは(今から見ると)とても〈第三世界〉っぽい。

*1:イラクで頻発している自爆テロにこのロジックが当てはまるかどうかはわからない。

*2:そもそも近代社会におけるテロはその匿名性を本質とし、それが一方では様々な〈謀略史観〉の温床を提供するとともに、ジェイムズ・ボンドを初めとするフィクションの世界における名を持ったスパイの活躍は、現実の歴史におけるテロの匿名性を文学的に補償しているかのようである。なおいうまでもなく、近代社会におけるテロは国家の特務機関や秘密警察をその原型としているといっていいだろう。ところで、Jonathan Freedland氏は、今回のテロに関して事件直後から出回っている諸〈謀略理論〉について、『ガーディアン』の「ニュース・ブログ」に寄稿している。Cf. http://blogs.guardian.co.uk/news/archives/2005/07/15/london_bush_and_mossad.html

*3:「自分は気づいているのに、相手は気づいていないことを指摘するということは、「なんで気づかない(わかんない)の!」という、相手の不注意や配慮の足りなさを責める感情に結びつくことが多い」(p.105)

*4:この前提として、〈無知である〉者の(自分に理解可能な知識への)権利を声高に唱える傾向が挙げられるだろう。例えば、ネット上の〈教えて君〉とか。奴らがうざいのは、何よりも〈エンタテイメントとしての質問〉ということを全く考慮していないことなのだが、それよりもそのことを棚に上げて、〈教えて!〉の宛先に対して、〈馬鹿への配慮〉を強制することである。このような仕方で、自らを馬鹿として再帰的に構築し続けているわけだが。

*5:それにしても、倫敦のテロもあったのだからオン・エアを自粛しろなどいう馬鹿がいなかったことを祈りたい。