「この社会は自傷的社会でもあるのだ」*1と書いたが、書いてから、この表現はちょっと舌っ足らずなんじゃないかと反省。この社会においてセラピーとか教育の名の下で行使される暴力は我々の一部である私に対して我々の一部である誰かによって行使されるという暴力の再帰性を「自傷的社会」と表現したのであり、実際にリスカなどを行う人を(道徳的に)非難する意図は全くない。それだと、「自傷的社会」をそのまま演じてしまうことになる。
「自傷」を巡って、「万事は政治の問題ではなく、教育或いは(パラメディカルも含めた)医療の問題でしかない」ような社会を批判したものとしては、Macskaさんの「リストカットなどの自傷行為を「防ぐ」ことは望ましいのか」*2を参照されたい。曰く、
自己というのは(環境)世界から差異化されて初めて自己として存立する。所謂「自傷行為」というのは、自己が(環境)世界に溶けてしまうというリスクを冒しつつ、不断に自己と(環境)世界との間の線引きを続ける所作と取り敢えずは理解できそうだが、必要なのは、それをさらに深めた〈自傷の現象学〉であり、〈自傷の病理学〉などでは断じてないだろう。
自傷行為というのにもいろいろあるだろうけれど、特にリストカットのように他人から隠れて行うものについては、ほかにコントロールできるモノを多く持たず自分自身の生を濃密に感じることができない人たちが、自分自身の身体をコントロールすることで濃密さを得るためのスキルだとわたしは思う。性的虐待やその他の厳しい状態を体験してきた人が、そうしたスキルを動員することによってようやく生きているというのに、それを頭から否定し防止の対象とするような医療は前提からして間違っている。医療モデルやそれに基づいた「被害者支援運動」は、虐待や暴力の被害を受けた人たちが生きていくために用いる様々なスキルの中に「望ましいもの」と「望ましくないもの」があると決めつける。気分を紛らわすために外でジョギングするのは望ましく、リストカットで気分を紛らわせるのは望ましくない。その時感じた感情をノートに書いてやり過ごすのは望ましく、お酒を飲んでやり過ごすのは望ましくない。悩みごとをホットラインに電話して相談するのは望ましく、援助交際して性的なコミュニケーションによって満たされることで解消するのは望ましくない。趣味や得意なことに集中することで自己肯定感を得るのは望ましく、食事を極端に減らすなどして自己コントロール感を得るのは望ましくない。余計なお世話だ。