酒乱か依存症か

朽木誠一郎「それは「酒の上での失敗」ではなく「暴力」 アルコール依存の家族がいるということ」https://www.buzzfeed.com/jp/seiichirokuchiki/alcohol-bakemono


「アルコール依存」だった父親を描いた漫画「酔うと化け物になる父がつらい」を連載している菊池真理子さんを巡っての記事。記事に引用されている部分だけ見ても、状況の凄まじさがひしひしと伝わってくる。菊池さんはそのモンスターのような父親に40年も寄り添ってきたのだという。


父はアルコール依存症だったのだろうか/少なくとも当時の私にその認識はゼロだった/だから突然父が化け物みたいになっても戦い方がわからない/言葉も/心も通じない/どんな武器でもビクともしない化け物が/勉強してると/ご飯食べてると/お風呂はいってると/寝てると/いきなり現れても
菊池さんが父親が「アルコール依存症」だったかも知れないと考えるようになったのは、父親の死後、「アルコール外来の取材」を通じてであったという。記事を読んでいて、この父親はどうしようもない酒乱、不幸にして長生きしてしまったような存在なんだろうと思ったけれど*1、「アルコール依存症」だったかどうかは、疑問に思った。言葉の問題かも知れないけれど、とにかくアルコールに対する耐性が強い酒豪という人がいて、また一方で酒絡みでとにかく厄介を起こす酒乱と呼ばれる人がいる。菊池さんの父親は後者だろう。しかし、こうした人がそのまま「アルコール依存症」かというと、そうではないのだろうと思う*2。アルコールに限らず「依存症(addiction)」一般についていえるのだと思うけれど、依存症というのは、止めたいのに止められない、というか精神はアルコールを欲していないのに身体は精神に逆らってアルコールを欲するという側面があるのだと思う。要するに、自己制御(自己抑制)の挫折としての依存症。若田恭二『〈わたし〉という幻想、〈わたし〉という呪縛』に曰く、

飲んだくれが、もし自己統御の近代的理性を信じていないなら、彼はたんなる飲んだくれにすぎません。自分の酒飲みの習慣をコントロールしなければならない、自分を制御しなければならないと思いはじめたとき、彼は「アルコール依存症患者」となるでしょう。アディクションは近代的現象なのです。そして依存症患者が、意志の力で自分の身体のカオスを征服し、コントロールしなければならないという自己強迫にかられればかられるほど、彼はアディクションの深みにはまっていくでしょう。誰かが「自己統御する理性などというのはフィクションにすぎないのだよ。だからもう自分をコントロールしようと努力する必要などないのだよ」と教えてやるまで。(p.128)
「依存症患者」は飲みたくないのに、酒が嫌いなのに、酒を飲む。そして、酒を断とうという意志を強くすればするほど、却って惨めに酒に吞まれていく。記事を読んだ限りでは、菊池さんの父親にはそういう近代的な屈折は感じられないのだった。さて、「依存症」から脱出するためには、先ず「依存症」から自らの意志の力で脱出できるという望みを諦めなければならない。アルコホリックアノニマス(AA)では、先ず「われわれは自分たちが、アルコールに対して無力の存在であること」を認めるところから始める(p.126)。中国思想的に言えば、儒家から道家或いは仏家への移行といえるかも知れない。しかし、「アルコールに対して無力の存在であること」を承認するということは、もしかしたら、マッチョな意志を以て「アルコール」に対して絶望的な戦いをすることよりも難易度が高いことなのかも知れない。無為の境地には修行なくしては到達できないように。近代に対する再帰的近代(reflexive moderninty)*3

*1:このように書くと、当事者から抗議されるかも知れない。

*2:アルコール中毒、略してアル中という些かオールド・ファッションドな用語があるけれど、これについてここでは議論しない。

*3:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050608 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071107/1194423783 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090210/1234250786 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20140626/1403801240 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20150320/1426821878 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20170417/1492400766