「与件化」?

承前*1

白石嘉治、松本潤一郎「「永遠の夜戦」の地平とは何か」『図書新聞』2009年1月31日号http://www.k-hosaka.com/henshu/yasen.html


佐々木中氏へのインタヴュー。
とても興味深い内容ではあるのだが、先ずのっけから躓いてしまった。インタヴュアの一人である 松本潤一郎氏が


では、まず私から質問させていただきます。現在の言説状況に特徴的なのは、特に社会学や心理学の言説に顕著ですが、「社会」なるものを全体として与件化し、俯瞰的視点から見下ろしたうえで処方箋を出すような態度です。無論、実は安心しているのは「答え」を出した当人であり、自身の問いの立て方がそもそも間違っているかもしれないとは考えない。「ない」ものを「ある」としたうえでその上前をはねる仕組みです。これは佐々木さんが論じておられるラカンの 言葉で言えば、剰余価値‐剰余享楽を獲得しようとする手順そのものであるわけですね。そしてフーコーも、こうした知の権力構造に生涯うんざりし続けた人 だったと思います。こうした「現在」をめぐる状況に、『夜戦と永遠』と題されたこの本は明確に対峙しようとしている、そう見受けられますが、このあたりの お話から聞かせていただけますか。
と切り出している。
さて、「「社会」なるものを全体として与件化」している社会学者って誰なのか。思うに、例えば日本社会とか中国社会とかをベタな意味で実在していると素朴に信じている社会学者はいないだろうし、そのように素朴に信じている限り、社会学者にはなれないのではないか。歴史的に見ても、「社会」が(「社会」であるとも意識されずに)「与件」として受け取られているようなお気楽な状況においては社会学が存立することはない(See eg. バーガー&バーガー『バーガー社会学』、pp.28-30)。
バーガー社会学

バーガー社会学

また、「社会」を「与件化」するためには「社会」の外部に立つ必要がある。しかし、少なくとも最近数十年間の社会学的思考が導き出した結論のひとつは、そのような「アルキメデスの点」*2なんかないということなのだ。1970年代以降の社会学において、reflexivity(再帰性、文脈によっては自己参照性)が鍵言葉のひとつになっている所以である。
後半部で佐々木氏は、

いつの日からか、ひとは意味を恐れるようになりました。意味ではなく強度だ、云々と。しかしそんなことは誰が言い出したことなのでしょう。ドゥ ルーズすら言っていないのではないですか。念のために言いますが、強度の対義語は「外延」ですよ。
と述べている。ここでは名前は出されていないが、ここから誰もが宮台真司という固有名詞を想起するのであって、上の松本氏の発言もそういうことを念頭に置いているなというのは、私でも朧げながらに理解はできるのだが。

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101204/1291472573

*2:アルキメデスの点」は、そもそも張江洋直「シュッツと解釈学的視座」、西原和久編『現象学的社会学の展開』、p.55でボルノーを援用する仕方で用いられている用語。

現象学的社会学の展開―A・シュッツ継承へ向けて

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