「アナ雪症候群」?

中森明夫*1「「中央公論」掲載拒否! 中森明夫の『アナと雪の女王』独自解釈」http://real-japan.org/%E3%80%8C%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%85%AC%E8%AB%96%E3%80%8D%E6%8E%B2%E8%BC%89%E6%8B%92%E5%90%A6%EF%BC%81-%E4%B8%AD%E6%A3%AE%E6%98%8E%E5%A4%AB%E3%81%AE%E3%80%8E%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%81%A8%E9%9B%AA%E3%81%AE/ *2


何故この程度のもので『中央公論』が掲載を拒否したのかは謎だが、中森氏の論の中心は以下に引用する部分にあるといえるだろう。曰く、


さて、ここで私独自の見解を明らかにしよう。『アナと雪の女王』は、真実の愛=姉妹の愛を訴えた映画では、ない。雪の女王エルサと妹アナは、見かけは姉妹だが、実は一人の女の内にある二つの人格なのだ。あらゆる女性の内にエルサとアナは共存している。雪の女王とは何か? 自らの能力を制御なく発揮する女のことだ。幼い頃、思いきり能力を発揮した女たちは、ある日、「そんなことは女の子らしくないからやめなさい」と禁止される。傷ついた彼女らは、自らの能力(=魔力)を封印して、凡庸な少女アナとして生きるしかない。王子様を待つことだけを強いられる。それでも制御なく能力を発揮したら? たちまち魔女と指弾され、共同体を追放される憂き目に会うだろう。

女は誰もが自らの内なる雪の女王を抑圧し、王子様を待つ凡庸な少女として生きることを強いられる。エルサとアナに引き裂かれている。それを私は“アナ雪症候群”と呼んでみたい。
そして、「アナ雪症候群」の例として、松田聖子松たか子小保方晴子*3、さらに雅子妃が挙げられている。
アナと雪の女王(Frozen)』という映画をこのように解釈することは不可能ではないと思う。但し、幾つか腑に落ちない点はある。
先ず自己の分裂と和解(統合)というのは性別を問わず重要な問題であり、(ここで例を挙げることはしないが)多くの文学や映画の主題となっている。また、特にreflexivity(再帰性)が鍵言葉のひとつとなっている後期近代のご時世では、(性別を問わず)誰もが分裂した自己の和解(統合)という宿題を課せられているとえるだろう。これと関連して、自らの持つ力能*4と折り合いをつけるという課題もある。自らの力だからといって自分の思い通りになるというわけでなない。寧ろ自分が自分の力に呑み込まれてしまい、その力は制御を失った原子炉のように自他を傷つける仕方で作動してしまうということは往々にしてある*5。この映画の最後では、エルサは自らの力能に溺れるのでも、それを恐怖して封印するのでもなく、自らの力として、夏にスケート・リンクをつくったり、雪だるまのオラフのために雪を降らせたり、という仕方で使いこなせるようになる。
ところで、『アナと雪の女王』のヒロインは女王と王女である。これはどういうことかというと、彼女たちの振る舞いはたんなる心理学的意味だけではなく政治学(国家学)的な意味、さらにはコスモロジー的な意味を有してしまうということである。エルサによって凍り付いてしまうのは「王国」=世界である。なので、物語は危機に陥った「王国」=世界の救済という意味を持たざるを得ない。
それから、”Let It Go”だけど、このタイトルから誰でも連想するのは、ビートルズの”Let It Be”だろう*6。”Let It Be”にせよ”Let It Go”にせよ、主観性(主体性)による自他への支配を少し緩めてみることに関連している。