鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』

 6月6日、鈴木謙介カーニヴァル化する社会』(講談社現代新書)を読了する。
 本書でいう「カーニヴァル」或いは「祭り」とは、所謂「伝統的な祝祭」ではなく、「二一世紀に入って以降の我が国で。そしておそらく欧米では二〇世紀の終わり頃から顕在化し始めた、日常生活の中に突如として訪れる、歴史も本質的な理由も欠いた、ある種、度を過ぎた祝祭」(p.8)である。最後の方で、これはジグムント・バウマンの概念に倣ったものであることが明らかにされるのだが(pp.137-139)、冒頭「祭り」の例として先ず言及されるのは、2004年に起こった2つのインターネット上での「バッシング」事件−−イラクで「人質」になった人々へのバッシングと北朝鮮による拉致被害者家族へのバッシング−−である(pp.3-7)。著者は、このような「祭り」を「近代化と、そしてその徹底として生じる「後期近代」に特有な現象」(p.8)として説明することを試みる。しかしながら、それはストレートに説明されるのではなく、先ず「フリーター」や「ニート」といった「若年層の雇用問題と就労問題」、「監視社会化」、「自己とテクノロジーの関係」といった論点を迂回しながら、最後に「「後期近代」に特有な現象」としての「カーニヴァル」が説明されるという構成が採られている。そこで共通して明らかにされるのは、私たちが「明確な「動機」、目指すべき「理念」、依拠すべき統一的な「物語」を欠いたまま生き」ている(p.9)ということだろう。
 第一章では、「フリーター」や「ニート」といった「若年層の雇用問題と就労問題」が論じられる。従来の「終身雇用」制度は、若者にとって「就職の際に重要な予期的要因として機能してきた」−−「「会社を選ぶ」こととは「その後40年の人生を選ぶ」ことと同義だったわけだ」(p.36)。しかし、


終身雇用が期待できなくなり、また職の口も減ってくると、これまでのような「就職に際しての予期的社会化」は、若者にとって、事実上困難な選択を強いることになる。ここで重要なのは、予期の構造が変化することだ。実際に一生勤め上げられるかどうかではなく、勤め上げられると期待できるかどうかが自明でなくなるとき、「就職」はその先の生涯を生きる原理へと準拠することではなく、源氏あの自分の生き方にとってどれほど適合的であるか、といった観点から選択されるものにならざるを得ない。にもかかわらず。そうした自分の生き方にとって適合的な就職先など、多くの人にとって存在しない、という現実がそこには存在する(p.38)。
 さらに著者は、久木元真吾の「フリーター」研究から、「フリーター」の語る「やりたいこと」の3つの特徴を抽出する(p.39);

(1)「やりたいこと」ならやめずに続けられる
(2)「やりたいこと」は明確でなくてよい
(3)「やりたいこと」は必ず発見できる
そこから、

やりたいことはよくわからないが、とにかくやりたいことに向かっていれば良い、というのは端的に自己展開している論理であり、こうした論理にこだわる限り、「やりたいこと」はいつまでたっても見つからない。「やりたいことがある」から頑張るのではなく、「やりたいことを見つける」ために頑張る以上、本当のところ、それが「本当に」やりたかったことなのかどうかは、本人にさえ決められないのだ。結果的に彼らは、いつも「暫定的にやりたいこと」へ向けて「やりたいこと探し」を続けていくことになる(pp.39-40)。
と論じられる。著者に従えば、これは決して「フリーター」だけの問題ではない。取り敢えず「就職」した人々も同様の問題を抱えている。就職の動機づけ=「やりたいこと」は、「短期的でかつ暫定的な、一瞬の盛り上がりによってしか得られない漠然としたもの」であり、「それゆえ、彼らが社会人として長く働いていこうと思えば、一瞬の盛り上がりが何度でも訪れるような、不断の自己分析を自身に課さねばならなくなる」(pp.48-49)。例えば「コンピテンシー評価」(p.49)。「渋谷[望]が述べる「ハイ・テンションな自己啓発」(=いつか本当にやりたいことを見つけるんだ!)と「宿命論」(=やりたいことなんて見つからないんだ)の間を右往左往しながら、暫定的な正社員だったり、フリーターだったり、無業者だったりするというのが、若者の雇用を巡る問題の構図なのではないか」(pp.51-52)。言葉を換えると、

言ってみれば現代の若者は、勤労に際して(比喩的な意味での)不断の「躁鬱状態」に置かれている。こうした状態を何とか支え続けるためにこそ、「やりたいこと」のような目標は、ずっと遠くに設定されていなければならないのではないか。冷静になってよく考えてみれば、「やりたいこと」も「働くべき理由」も、内発的には存在しない。だからこそ、客観的には実現不可能な遠い目標を設定し、そうした「漠然としたやりたいこと」へ向けて、テンションを高めていかなければならないのである(p.52)。
 第2章では、「監視社会化」が論じられる。ただ、ここでいう「監視」とはジョージ・オーウェル的な「監視国家」でもなく(pp.66-67)、またフーコー的な意味における「規律社会」でもない(pp.67-70)。前者に関しては、「監視社会を支えるのは、監視とそれにまつわる権力の集中ではなく、監視そのものの偏在である」(p.67)のだが、

監視社会化とは、私たち自身が自己の選択としてそれを購入し、利用する限りにおいて、「社会の監視化」なのである。そこで監視「する」主体は誰か。他ならぬ私たち自身である。では監視「される」のは誰か。それも、私たち自身であるとしか言いようがない(ibid.)。
なので、「監視の導入に際しての決定は、「個人にとっての必要」という観点から語られるものになっ」ており、

たとえどれほど社会が実際には安全であったとしても、人々が「不安」を抱えていれば、それだけで「監視」のような防犯対策にはニーズが生まれる。それが結果として、「監視」に関する様々なテクノロジーを大きな産業として成長させる要因になっているわけだ(p.64)。
 著者はデヴィッド・ライアンを援用して、「監視社会」は、フーコーのいう「規律社会」よりもドゥルーズのいう「管理社会」に近いという;

管理社会は、ある閉じられた環境から別の閉じられた環境へ人々が移動していくプロセスにおいて、訓練を通じて不断に規律化されていく「規律社会」とは異なり、データによって個人が管理される社会である。フーコー的な規律訓練の帰結は服従=主体化であったが、管理社会においてはこうした「分割不可能だった個人(individus)」は分割によってその性質を変化させる「可分性(dividuels)」となる。すなわち、個人が何者であって、どこに所属しているのかという論点が後退し、当該の状況においてある個人がどのようなデータを有しているかが焦点化されるのが管理社会である(p.71)。

 要するに管理社会=監視社会における監視とは、(1)身体の脱埋め込みが電子メディアによって可能になるという条件の下、(2)分割された個人情報の蓄積であるデータベースと、(3)それを最終審級で束ねる個人の身体がセットになって社会関係が取り結ばれるような事態を指しているのだ(ibid.)。
 さて、著者は監視社会における「データベース」と個人との関係に言及する。

私たちはデータベースを単なる個人情報の引き出し口として利用するだけでなく、そこに情報を登録するという作業を行っている。つまり、データベースと個人とは、個人情報の引き出しと登録によって、「相互審問」する関係にあるのだ(p.90)。
この「相互審問」という言葉は些か分かりにくい。著者が例として挙げているのは、Amazonの「おすすめ商品」(pp.90-91)とi-Tunesの「パーティシャッフル機能」(pp.91-92)。

 監視社会が可能にする、データベースと個人との新たな関係は、個人がデータベースに問い合わせを行い、その結果として個人の欲望すべきものがデータベースによって提示されるという、相互審問の関係にある(p.92)。
「データベースによって提示される」「個人の欲望すべきもの」というのはあくまでも特定のアルゴリズムによって(機械的に)算出されたものにすぎない。しかし、問題なのは、そうであるにもかかわらず、個人の側があたかも「何らかの人称的な選択が働いたかのような錯覚をすることで、そこに「人間的」な理由を見いだそうとする」(p.94)ということである。著者によれば、これは「勤労への動機づけ」における「ハイ・テンションな自己啓発」とパラレルであるという;

冷静になって考えてみれば、何日にもわたる徹夜の勤労を支える本質的な理由は何もない。にもかかわらず、いや、だからこそ、私たちはそこに、瞬発的なハイ・テンション状態を持ち込むことで、無理矢理に「人間的な理由」を見いだそうとしているのである(p.95)。
それだけでなく、データベースと個人の欲望との関係は閉じられた「ループ」になりうるのである−−「私の欲望するもの、私がくぐることのできる門はあらかじめデータベースのアルゴリズムによって決定されており、私たちはそれを宿命として受け入れるかどうかという選択のみを行えばよい、という作動するシステムが、ここまで論じてきた「監視社会」の本質なのである」(p.96)。さらに、ここから「人の「知性」の側面がデータベースへと外部化されることにより、個人の内面の「感性」の水準が前面化するという事態」(ibid.)である。
 第3章では、「ケータイ」によるコミュニケーション、特に「ケータイ依存」が語られる。「ケータイ依存」は、ギデンズのいう「再帰的近代(reflexive modernity)」における「純粋な関係性(pure relationship)」、つまり「人間関係そのもの」への「嗜癖」として捉えられる。また、このことと「監視社会化」が組み合わさると、「対人関係のデータベース化」が出来する(p.121ff.)。つまり、「大切な友達」も「そうでない友達」も「あらゆる友人が、ひとつのデータベースに収められ、フラットに並」ぶこと、「「友人」というカテゴリーに関する物理的な制限の後退」である(p.123)。さらに、「対人関係のデータベース化は、それが電子的に保存され、かつ通信手段と一体化している場合において、それ自体が対人関係であるかのようなイメージを与える」(ibid.)。著者は、「ケータイのアドレス帳があることによって、彼らの友人関係のイメージが確固たる形を与えられる」という「ケータイのアドレス帳に登録された「友人」との距離に関する、若者たちの意識」について、

むしろここで生じているのは、対人関係が、何か事実的な繋がりを持った、体験に根ざしたものとしてではなく、〈繋がりうること〉へと意味的な転換を生じているということなのだ。そしてその〈繋がりうること〉を支えるのが、通信手段と一体化したアドレス帳なのである。事実、幾人かの学生が、アドレス帳が消えてしまうと連絡の取れなくなる友人がいると答えている(p.124)
と述べている。或いは、「〈繋がりうること〉を確認するためのクローズドな場」としてのSNS(p.126)。
 「対人関係のデータベース化」は、さらに「個人化(individualization)」の議論に接続される(p.127ff.)。著者はスコット・ラッシュによるa「リニアなモードの個人化」とb「ノンリニアなモードの個人化」の区別を参照する(pp.128-129)。

リニアなモードの個人化
 「我思う、故に我あり(I think, therefore I am.)」
 「社会関係に応じて変化する「客我(me)」を統一的に把握する「主我(I)」との二重構造において自己意識を獲得する」
 「反省(reflection)」

 ノンリニアなモードの個人化
 「我は我なり(I am I.)」
 「私が私であることの確信になるような内的メカニズムが欠如しており、個人とは、他者との関係の中でころころ変わる「知られる私」の集合に過ぎないということになっている」
 「再帰(reflex)」

この「反省」から「再帰」へという変化、香山リカなどの精神分析方面で言われている「抑圧」から「乖離」へという変化と重なるところがあるかも知れない。或いは、ミード的にいえば、「一般化された他者」以前へ、「ゲーム」から「プレイ」への退行か*1。さらに長い引用をしておこう。

ノンリニアなモードの個人化が進行する社会においては、他者との関係の中で必要とされる役割(me)を取得し、それを的確に演じ分けるアイデンティティ(I)を取得する、といったような「社会化」のプロセスは弱体化せざるを得ない。むしろ必要となるのは、場面場面に応じて臨機応変に「自分」を使い分け、その「自分」の間の矛盾をやりすごすことができるような人間になること−−いわば「脱−社会化(De-socialization)」なのだ。
 「脱−社会化」された個人が、現実の社会を生きる上で必要とするのは、現在直面している社会関係の中で期待される役割を正しく演じるための感性であり、その感性の問い合わせ先としてのデータベースである。つまり、個人化によって可能になる「わたしはわたし」と無反省に断定する振る舞いは、その都度その都度、データベースに対して自分が振る舞うべき「キャラ」、期待される「立ち位置」を確認することによって可能になっているのである(pp.130-131)。
 さて、終章では遂に「カーニヴァル」が論じられることになるのだが、ここでは、ワールド・カップとか様々な「2ちゃんねる」系の「オフ」を例として挙げながら、「自己目的化する感動」(p.143)を「カーニヴァル化」の「源泉」としている。また、ここでは「反省」と「再帰」の区別が問題となっている−−著者と北田暁大との対立。著者は北田の議論の前提(「近代における「反省」という振る舞いの社会史」)を、

近代社会とは、「自己の行為の再帰的モニタリング=反省」が社会の構造化を促すという作動形式を持つ社会であるわけだが、「神」や「伝統」のような根拠を欠いたまま、反省それ自体の営みによって社会がイメージされ、形作られるという特徴を持つが故に、いくら反省しても、対象の確固たるイメージを獲得できないという事態が生じる(p.144)。
と要約している。そして、「単純な形で徹底される反省=嗜癖に陥るのを回避するために」(p.145)導入されるのが「アイロニー」(p.146)であるということになる。そこでは、「あらゆる対象が〈繋がり〉のための〈ネタ〉として機能することになる」−−著者の言葉で言えば、「ネタ的コミュニケーション」。しかし、著者は北田に対して、「反省の徹底故に生じる嗜癖状態と、北田の言う〈繋がりの社会性〉−−あらゆるものが繋がりのためのネタとして消費される状態−−は、現象としても、理論的な水準としても、区別されるべきものである」(p.147)という。それは「反省的自己」と「再帰的自己」との差異に関わっている。
 多分、その2つは「現象としても、理論的な水準としても、区別されるべき」とする著者のスタンスは、形式的には正しいといえるだろう。しかし、この場面に限って言えば、私は北田に左担したいと思う。それは私が「反省」と「再帰性」に寧ろ連続性を見ているからだ。著者も「反省」と「再帰性」を〈混同〉している。「宗教」への言及を行っている部分だ(p.148ff.)。著者は「一九〇〇年前後に、社会の再帰性を直截に示す現象が散見されるようになった」(p.148)ということで、その例として「反省的な宗教への言及」としての「キリスト教ファンダメンタリズム」(p.149)を挙げている。「社会の再帰性を直截に示す現象」の例としての「反省的な宗教への言及」である。また、「反省的」であるファンダメンタリズムに対して、例えば「創造論」のニュー・ウェイヴである「ヤング・アース派」が対置される。著者は「私には、ヤング・アース派の主張は、まさに「創造論」という立場が、「福音派」という、指示されるべき超越論的な視点を欠いた状態で、自身にとって「ネタ」になるものを何でも取り込んでいった、その結果として生じたもののように思えるのだ」(p.151)という。著者は慎重にも「反省的な運動原理からは区別されなければならないのではないか」と疑問形を使ってはいる。著者のこの迷い、混乱は、やはり「反省」と「再帰性」を無理矢理に区別したことに由来するのではないか。正直言って、「ヤング・アース派」が「徹底的に科学的な装いをまとう」からといって、何故わざわざ「再帰」的とされなければならないのか理解できなかった*2
 世界にあるあらゆる存在者が自らの「ネタ」として現象すること。これは手段‐目的関係の徹底化であろう。これは宗教改革以来の近代的主体の在り方そのままである。ただ、そこでは私は神の道具であり、世界は神の道具たる私の道具であるという構造があるのだが、ここでは神‐私関係は蒸発し・不可視になっている。著者の言葉遣いを見てみると、例えば「場面場面に応じて臨機応変に「自分」を使い分け、その「自分」の間の矛盾をやりすごすことができるような人間になること」というように、道具的理性の使い手が想定されている。ともかく、私が言いたいのは、ここで描かれている問題はそもそも近代的なるものに孕まれていたのであって、情報化や「監視社会化」といった事態は、問題をより先鋭化させたということなのではないかということである。http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050529で、テリー・イーグルトンの「ポストモダン」談義に疑義を呈してみたのも、同様の趣旨だったのだが。

*1:著者のミード解釈には疑問があるのだが、機会があったら、ミードの専門家のご教示を受けてみたい.。

*2:逆に、「ヤング・アース派」が偽装のための「ネタ」として〈科学〉を使っているうちに、「再帰的」に〈科学〉に巻き込まれてしまうということなら理解できる。これは「オウム」にもいえて、プロパガンダ目的で〈科学〉を振り回しているうちに、〈科学的ディスクール〉に巻き込まれて、結局〈疑似科学〉として〈科学的〉には露呈されてしまう。