死刑を巡って幾つか

『毎日』の記事;


<死刑執行>3人を執行 長勢法相の下で10人


8月23日11時36分配信 毎日新聞
 法務省は23日、3人の死刑を執行した。関係者によると、執行されたのは▽竹沢一二三(69)=東京拘置所収容▽岩本義雄(63)=同▽瀬川光三(60)=名古屋拘置所収容=の各死刑囚。
 死刑執行は国会会期中だった4月27日以来で、長勢甚遠法相の下では3回目で計10人になった。93年の執行再開以降の法相は20人いるが、最多となる。これで、現在収容中の死刑囚は103人となった。
 確定判決によると、竹沢死刑囚は栃木県内で90年から93年にかけ、妻の浮気相手と思い込んだ男性ら計3人を殺害した(殺人、放火罪など)。岩本死刑囚は96年、東京都豊島区で帰宅途中の女性会社員をナイフで刺殺し、99年には同台東区の住宅に押し入って、男性社長を刺殺した。いずれも強盗目的だった(強盗殺人罪など)。瀬川死刑囚は91年、富山市の人材派遣会社の社長夫婦を射殺した上、現金を奪った(同)。
 死刑執行を巡っては、法相の命令が出なかったことによる約3年4カ月の中断を経て、後藤田正晴法相当時の93年3月に再開。再開後の執行は今回で57人となった。【坂本高志】
 ▽日本弁護士連合会の平山正剛会長の話 約8カ月の間に10人に死刑が執行されており、誠に遺憾。死刑制度に関する情報を広く公開し、制度の存廃について国民的議論を尽くすまでの一定期間、執行を停止するよう重ねて強く要請する。
 ◇増え続ける死刑判決とのバランスも=解説
 23日の3人の死刑執行により、長勢甚遠法相は93年以降の歴代法相(20人)の中で、最多となる計10人の執行を命じたことになる。背景には、厳罰化の流れの中で増え続ける死刑判決とのバランスがある。
 長勢法相は昨年12月のクリスマス当日に4人、今年4月には国会会期中に3人、そして今回は、27日に予定される内閣改造直前の執行。執行命令書へのサインを拒んだ杉浦正健前法相とは一転、長勢法相は昨年9月の就任以降、積極的ともいえる方針で臨んできたが、それでも収容中の死刑囚は103人に上る。
 法務省の集計によると、死刑判決の確定者は平成に入ってから(89年以降)1けただったが、04年以降、10人を超え、06年にはオウム真理教松本智津夫麻原彰晃)死刑囚らを含め21人と、年々増加傾向だ。その一方で、この10年間の執行は毎年1〜6人。「消極的な大臣を周囲が説得したケース」(法務省関係者)もなかったわけではない。
 こうした実態と比べると、長勢法相は国会などでも「(執行を)きちんとやるべきだという意見も多い」と述べ、強硬姿勢は際立っている。同省幹部も「死刑囚の2けた台にこだわるつもりはないが、執行が追いついていないのは明らか。制度自体に対する国民の不信を招くわけにはいかない」と話し、法相の姿勢は死刑制度の堅持を図りたい同省の意向も反映しているとみられる。
 しかし、死刑制度に反対する関係者は「世界的には死刑廃止国が増えているのに逆行している」と批判。国連・拷問禁止委員会は今年5月、拷問禁止条約に基づく初の対日審査を実施し、死刑について「速やかな執行の停止」を勧告するなどしているが、国内での死刑制度廃止の動きは広がりを見せていないのが現状だ。【坂本高志】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070823-00000046-mai-soci

これに関してというか、死刑執行の詳細が事前に公表されないことに関して、

法務省は死刑執行に関しては詳細を発表しません。誰が処刑されたかは、あくまで非公式に関係者によってもたらされる情報です。事前には誰にも知らされていません。


なぜ隠すのでしょうか。

もし「凶悪な犯罪だから死刑は当然である」と考えるなら、法務省は事前に氏名を発表すればよい。というかむしろ、するべきだ。このような秘密主義では、行政が適切に行なわれていることを国民は知ることができません。この点からすれば、死刑の存置に賛成であろうと反対であろうと、法務省にきちんとした情報開示を求めるべきなのではないでしょうか。


あるいはまた、死刑廃止の主張を批判する人々からは、死刑は当然である、法務大臣は粛々と執行すべし、執行に抗議するのは筋違い、などといった声が聞こえてきます。人によっては、死刑囚の食費がもったいないから早く殺せ、などという人までいる。なるほどあなたたちは、死刑の執行は正義の実現だとお考えのようです。

それが正義の実現ならば、なぜ隠すのか。
http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20070825/1188059250

という意見あり。
また、

国家の意図的な冤罪と、制度がもつ必然としての冤罪が避けられない以上、死刑はどうしても廃止されなけらばならんのや。
 大逆事件をでっちあげた平沼騏一郎やら武富済やらの子孫は、いまものうのうと、息してるやろ。どうしても死刑制度を廃止できないというなら、冤罪で死刑をだした裁判官や検事、それを意図的に作り出した捜査官やらハンコをついた大臣は死刑という条文を付け足してもらいたいもんや。
http://saluton.asablo.jp/blog/2007/08/26/1753211
という意見も。
以前、死刑を巡って、

 〈死刑〉という制度についてだけれど、以前よりつらつらと考えていたことがある。〈死刑〉とは国家の名において人を殺すことだ。〈国家〉ということに注意しよう。直接的な下手人はたしかに政府職員たる刑務官である。しかし、殺す主体は刑務官でもなければ、その直接的な雇用者としての政府でもない。あくまでも〈国家〉なのである。この場合、〈国家〉とはゲゼルシャフトとしてのstateではなくて、ゲマインシャフトとしてのnationを意味するだろう。だから、「国家の名において」というよりも〈国民の名において〉という方が正確だろう。〈死刑〉に限らず、「国民の名において」ではない国家の作動(権力の行使)は(少なくとも建前では)無効である。これは何を意味するのだろうか。それは、私やあなたが、死刑に賛成だろうが反対だろうが、拍手喝采していようが遺憾なこととして嘆いていようが、(私やあなたが、その一部として参与する)〈私たちの名において〉死刑=殺人が行われるということだ。一人の囚人を絞首刑によって殺すためにどれほどの力が必要なのかは知らないが、そのうちの幾らかは確実に私やあなたの力(握力?)なのである。言葉を換えれば、死刑が行われる度に、それに賛成だろうが反対だろうが、私もあなたも死刑囚の首に手をかけている。ただ、抵抗も死刑囚の足掻きや藻掻きも感じないだけである。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060127/1138329871
と書いたことがある。また、「〈国民の名において〉死刑が遂行されるとしたら、その〈国民〉には死刑囚の家族、さらには死刑囚本人も含まれるのだ。つまり、〈死刑〉というのはその幾分かは自殺であるということになる」とも。〈死刑〉に何故反対なのかといえば、自分とは全く面識もなく、勿論直接の怨みも発生しようのない人間を殺すことに「国民」という資格で、その都度その都度加担してしまう(させられてしまう)ということが嫌だからである。また、上の「法務省は死刑執行に関しては詳細を発表しません」ということを踏まえれば、気がついたら、朝起きて新聞を読んでいたら、自分が殺人者になっていたということになる。
ところで、国家にとって死刑の執行それ自体はそれほど重要ではないのではないかと不図考えた。何故「法務省は死刑執行に関しては詳細を発表し」ないのか。フーコー流には、そこに絶対王政と現代との権力(暴力)の作動の仕方の違いを読み取るべきだということになろう。確かに、絶対王政における暴力の主体は王という固有の身体である。それに対して、民主主義的現代においては、暴力の主体は〈国民〉という不可視のものになっている。また、現代の権力は主体を形成する権力でもある。死刑囚はどのような主体として形成されるのか。それは自らの生/死が(神仏ならぬ)国家(国民)の掌中に完全に握られていることを諦観する主体として? 牛や豚や羊の生/死が飼い主に委ねられるように? 死刑という制度は特定の人物を国家(国民)が殺すことというより、彼(彼女)の生/死を国家(国民)の掌中に完全に収めることに意味があるのではないか。死刑囚に限らず、拘置所や刑務所においては徹底的に自殺は抑圧される。だから、ベルトも盗られてしまうわけだ*1。素朴に考えれば、死刑囚の場合、どうせ最終的には殺すのだから、別に自殺してもいいじゃないか、処刑する手間も省けるじゃないかと思う。しかし、死刑囚の自殺は許されない。あくまでも、国家(国民)によって殺されること、国家(国民)によって生かされ続けることが重要だということになる。中国に執行猶予付きの死刑判決というのがあって、〈四人組〉、例えば江青も死刑判決を受けながら獄中で生涯を閉じたわけで、最初何か変だなと思っていたのだが、よく考えればこれは死刑制度の本質を示しているといえる。さて、現代の民主主義的権力(暴力)の特徴は何かといえば、再帰的であることである。とすれば、死刑囚以外の国民にとっての死刑執行の意義は、死刑囚の生/死を国家(国民)として玩びつつ、自らも死刑囚と同じ国家(国民)として、自らの生/死が(究極的には)国家(国民)の掌中にあるということを諦観することだろうか*2。死刑の執行というのは国民をそのような主体として調教する仕掛けということになる。
以前、死刑囚を拘束することはおかしいと考えていた。社会契約論を持ち出せば、死刑判決というのは社会契約の破棄であり、その瞬間、死刑囚は獣としての自由を恢復するのではないか。だから、判決と同時に処刑が実行されるのでなければ、死刑制度は存立できないのではないか。しかし、上記のような主体として日々調教されているのであれば、この疑問は半ば消えてしまうことになる。家畜は野生動物にはなれないのであり、死刑囚は獣としてではなく、人間として殺されるのである(人道主義!)。

*1:Cf. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070825/1188022106

*2:これは、安楽死や臓器移殖等々の生命倫理的問題に繋がっている。