宇野重規『保守主義とは何か』

宇野重規保守主義とは何か 反フランス革命から現代日本まで』*1を数日前に読了。


はじめに


序章 変質する保守主義――進歩主義の衰退のなかで
第1章 フランス革命と闘う
第2章 社会主義と闘う
第3章 「大きな政府」と闘う
第4章 日本の保守主義
終章 二一世紀の保守主義


あとがき
参考文献

「あとがき」によれば、この本は「必ずしも自らを保守主義者とは考えていない」(p.209)人間が「現代において私たちが知っておくに値する保守主義の思考を選び出そうとという意図の下」(p.211)に書かれている。
(著者は元々トクヴィルの研究家であるが)エドマンド・バークから出発し(序章、第一章)、さらに20世紀のT・S・エリオット、ハイエクマイケル・オークショット(第2章)、米国のリチャード・ウィーヴァー、ラッセル・カーク、ミルトン・フリードマン、ロバート・ノージック、所謂「ネオコン」の思想家たちが紹介・検討される(第3章)。第4章では、視点が日本へ転じられる。先ず丸山眞男福田恆存の「保守主義」論が提示され、日本における「保守主義」の系譜として、「「保守」という言葉を自らの政治的立場を示すものとして明確に用いた最初の人物」(p.168)である島尾小弥太、伊藤博文陸奥宗光などが言及され、さらに戦後における「保守本流」としての吉田茂の系譜(旧「自由党」系)が検討されている。
少し抜書き;

(前略)「保守」とは何かとなると、実はかなり怪しい。男女平等やジェンダーフリー性役割をめぐる固定的通念からの自由を求めること)の思想に批判的な人々を指すこともあれば、自国を愛し、外国人に対して警戒的な態度を意味することもある。時にアメリカでのように「小さな政府」を目指す立場を「保守」と呼ぶことさえある。結局のところ「保守」といっても、「自分はリベラル(あるいは「左翼」)ではない」という、消極的な意味合いしかもたないのかもしれない。(「はじめに」、pp.i-ii)

(前略)社会や政治の民主化を前提にしつつ、秩序ある漸進的な変革を目指すのが、彼[バーク]の保守主義であった。
このように、もし保守主義という場合にバークに言及するならば、少なくとも(1)*2保守すべきは具体的な制度や慣習であり、(2)そのような制度や慣習は歴史のなかで培われたものであることを忘れてはならず、さらに、(3)大切なのは自由を維持することであり、(4)民主化を前提にしつつ、秩序ある漸進的改革が目指される、ということを踏まえる必要がある。
逆にいえば、(1)抽象的で恣意的な過去のイメージに基づいて、(2)現実の歴史的連続性を無視し、(3)自由のための制度を破壊し、さらには(4)民主主義を全否定するならば、それはけっして保守主義といえないのである。少なくともバーク的な意味での保守主義ではない。(序章、pp.12-13)

(前略)伝統的な政治体制が長く存続し、むしろその打倒が政治的近代化の課題となった国々――世界史のなかでは、こちらが一般的であり、むしろ英米の方が例外的かもしれない――では、伝統を否認する政治的急進主義と、それに反発する勢力とが衝突し、自由な秩序の確立に向けて漸進的改革を主張する保守主義が確立する余地は小さかったといえる。
実際、革命の国フランスでも、長らく「保守主義」は存在しなかった。フランス革命に反発し、ブルボン朝の昔に戻ろうとする「反動」や、これ以上の革命に対しブレーキをかけようとする「自由主義」の勢力は存在しても、現行の政治制度を自覚的に「保守」しようとする勢力はなかなか現れなかったのである。
フランスで「保守主義者」と呼ばれる人の多くは、実際には、正統王朝主義者(ブルボン朝への復帰を願う人々)やカトリック主義者、さらにはナショナリストであり、彼らのほとんどは現行の政治体制への忠誠心をもたなかった。ちなみに、近年、フランスで『右派思想史』という本を書いた研究者がいるが*3、その著作の副題が「不可能なる保守主義」であったことが象徴的である(Histoire intellectuelle des droites: Le conservatisme impossible)。(第4章、pp.156-157)

保守主義は近代の思想であった。社会の無限の「進歩」を信じることができた、人類の歴史でも稀有な時期に固有な思想であった。これに対し、今日の保守主義は、そのような近代が終焉した後の時代のものであり、その限りでは「ポストモダン」の保守主義である。あるいは、(略)アンソニー・ギデンズの言葉を再び借りれば、「再帰的近代」、すなわち近代が、自らの生み出した作用の結果として変質し、新たな段階に入った時代の保守主義なのである。
再帰的近代」では、人々は自らの過去や伝統を自覚的に問い直す。もし現代においてなお保守主義に意味あるとすれば、そのような過去や伝統を、たえずより豊かなものへと捉え直していく営為に見出すべきだろう。もはや過去や伝統は自明ではない。だからこそ、それを再解釈し再編集していくことが必要であるといえる。過去の歴史のなかに、自らの拠って立つべき価値や基準の源泉をいかに見出すか。それをどのように再解釈すれば、現代的なかたちで甦らせることができるのか。
「進歩」が見えにくい時代だからこそ、過去を振り返る。過去を確定した一枚岩として捉えず、むしろ再解釈や再編集が可能なものとして理解する。その場合も、独善的な「原理主義」を排し、より多くの人々が共有可能なものとして過去を開かれたものにしていくことが重要である。二一世紀に、もし保守主義がなお一つの英知としてあり続けるならば、これらの課題は明らかであろう。(序章、pp.17-18)

*1:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20170405/1491402367

*2:原文は丸囲み数字。

*3:Francois Huguenin