プレイの手前で

つだつよし*1「「子どもな男子と大人な女子」この差はどこで生まれるか? 」http://jijico.mbp-japan.com/2015/12/23/articles18970.html


曰く、


厚労省は昨年、13歳になった子ども約3万人の中で「悩みや不安がある」と答えた女児が男児よりも多かったとの調査結果を発表しました。これを受け、厚労省担当者は「男児に比べ女児は精神的な成長が早いのではないか」との見解を示しています。

朝の中学生の登校風景を見てみてください。特に中学1年生、女子に比べて男子の幼さが見た目だけでもよく分かります。さらに、子どもたちへのカウンセリング、体験活動と実際に子どもたちとの触れ合いの中では、身体的な「見た目」だけではなく、会話の内容や遊び方など精神的な差の方が大きいと感じます。

精神的な差が早いと、男子と女子では抱える「悩み」や「不安」の内容も違ってきます。この差は、なぜ生まれるのでしょう。身体的な成長では、子どもから大人になる過程の第2次性徴期と呼ばれる時期は平均で男子が11歳半、女子は10歳と言われています。もちろんこれも関係しているのでしょうが、それに加えて差を生む要因は、他にもあるのではないかと考えられます。


一つは、幼いころの遊び方です。幼い子どもの遊びと言えば「ごっこ」遊びです。男子が戦隊もののヒーローになりきって「ヤー!トー!〇〇ビーム!」と空想の世界に浸る中、女子は母親や先生になりきって「ご飯作るね〜。眠りましょうね〜。」と正反対。幼いころにいくら力んでも残念ながら大人になってビームは出ませんし、仮面を被ってビームを出している大人はいません。

一方、母親の方はごく身近な存在で、先生も保育園に行けば会えます。大人の真似をしているうちに自然と母親の考え方を理解していくのも頷けます。言わば成長に欠かせないモデリング(憧れの対象)対象が現実に近いか、遠いかでかなり差が生じてくるのでしょう。


もう一つは、幼いころに与えられる手伝いでしょう。例えば、女の子の場合、多く与えられるのが料理や洗濯など、母親の補佐的な役割や一緒にケーキ作りや縫い物などの「お母さんと一緒」の個人レッスン的なお手伝いなど、身近な「働き手」として活躍していきます。

もちろん、男の子もお手伝いを通して活躍していきますが、お風呂掃除や靴揃え、重たいものを運ぶなど、食べる・着るほど身近ではなく、「一緒に」という機会にもなかなか恵まれません。女性は早く「現実世界」に触れて活躍することが、結果としてまた差が生まれていきます。

ジョージ・ハーバート・ミード*2によれば、具体的な他者の模倣としての「ごっこ(play)」を超えて抽象的な規則が支配する(野球やサッカーなどの)「ゲーム」に参入することと、一貫した自我が確立されていくのは即応的である。ここでいわれているのは「ごっこ(play)」の段階でのこと。その後の成長に対する「ゲーム」への参加の効果はそれほどないのだろうか。
小谷敏「社会の一員になること 「そんなことすると、人に笑われますよ」でも、「人」っていったい誰なんだ」(in 張江洋直、井出裕久、佐野正彦編『ソシオロジカル・クエスト』、pp.64-79)*3から引用;

ミード(G. H. Mead)は、プレイからゲームへという、自我発達のモデルを提示している。小さな子どもたちは、ごっこ遊び(play)に興じている。ごっこのなかで子どもたちは、おかあさんや先生など、身近な他者(セーラームーンのような、想像上の他者だったりもするが)の行動を模倣して遊ぶ。ごっこ遊びには、ルールらしいルールもない。途中で突然演じている役柄が変わったりもする。まことに気楽なものだ。
ミードが重視したのが、学齢に達した子どもたちが行なう、野球のようなゲーム(game)である。野球場のなかには、社会過程のすべてが凝縮されている。ミードはそう考えていた。まず、野球には、複雑で構造化されたルールがある。そして野球のようなゲームの場合には、ごっこ遊びとは違って、ただ眼前の他者との関係で、自己の行動を決定すればよいのではない。1アウトランナー3塁。このときの外野手は、打者の打力、走者の走力、ピッチャーの球威と球筋、そして風向きまでを含めた複雑な要素のすべてを考慮にいれて、守備位置を決めていかなければならない。球場の全体を一個の他者として自己のなかにもつ、知的な能力の発達がなければ、野球のようなゲームを行なうことはできないのである。
構造化された規則に従って行為すること。そして、自己の属する状況の全体を一個の他者――「一般化された他者(generalized other)」として自らのなかにもち、それとの関連で行動を決定していくこと。こうした資質は、まさに社会的な行為を行なう個人に要求されるものでもあろう。野球に興じる子どもたちは、「社会の成員」となるうえでの、大切な能力の訓練を、行なっていることになる。学齢に達した子どもたちのなかには、「一般化された他者」のまなざしが入り込んでいる。だからこれ以降、われわれは、個別的な他者だけでなく、「社会一般」――世間――の嘲笑や非難を受けることをも、恐れるようになる。(pp.66-67)
ソシオロジカル・クエスト―現実理解の社会学

ソシオロジカル・クエスト―現実理解の社会学

浅野智彦氏の「自我論になにができるか――関係・パラドクス・再帰性」(in 奥村隆編『社会学になにができるか』)を再読。その第2節は「「関係」としての「私」――ミード」(pp.41-51)。
社会学になにができるか

社会学になにができるか